
税と米の歴史を整理して日本史をカンタンに!【ササノンのちょっと深ぼり歴史トーク#4】

このシリーズでは、歴史好きな茶屋娘『ササノン』がちょっと『深い』歴史を語ります!
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「 税」と「米の流れ」から日本史を紐解いてみよう!
新しい制度は全部を朝廷に集めたい(645~700年頃)

日本における税と米の始まりは、大化の改新にまでさかのぼります。
それより前は、地域ごとの豪族が自身の支配地域で好きに税を徴収し、彼らの財布に入れていました。つまり、矢印(米)の行きつく先が、地域ごとの豪族に集まっていたのです。
ところで、その時の朝廷はまだ税(米)をたくさん集めることはできませんでした。地方の豪族が個人の財布から米を寄付することはあっても、決して制度として大規模に徴税をするシステムはなかったのです。
しかし、大化の改新で制度が一新されたことで、米の流れが一気に様変わりします。矢印の行きつく先が、全て朝廷一か所に集中したのです。
そのために、日本で初めて全国規模の米集積システムが導入されました。
まず、それぞれ所有者がいたであろう日本にあるすべての農地を朝廷のもであると決めました。さらに、全国の人間もまるっと全員朝廷が管理するようにしました。
そして、朝廷所有になった農地へ彼らを割り当てて耕作させ、そこからとれる米のうちいくらかを税として納めさせたのです。
徴税のための集積所(国衙)も全国各地につくられ、人々はそこに米を運び込みました。そこに集まった米は、必要に応じて都まで輸送されて朝廷の財政に加えられました。
ここに、全ての土地と人間は朝廷のものであり、すべての矢印(米)が行きつく先は朝廷の財布であるという体制が確立しました。
この体制を、公地公民制といいます。
朝廷は農地を増やしたい(700年代)
システムはうまくいっているように見えましたが、聖武天皇(724年~749年)の時代になると陰りが見え始めます。人口の増加により、割り当てるための農地が足りなくなったのです。そのため、朝廷は農地の拡大を目指すことにしました。
そこで、開墾をするよう人々に呼びかけましたが、それは全くうまく進みませんでした。というのも、毎日の米作りや生活の間に辛い思いをしてまで開墾を行うなんて、誰もやりたがらなかったのです。
そこで、朝廷は「墾田永年私財法」を制定しました(743年)。
これは、新たに開墾した土地の所有権と管理権は、開墾した一家が代々もったままでいられるというものです。
しかし、これは全国すべての農地は朝廷のものであるという法則の崩壊を意味しました。
各地に私有地ができ、余裕のある寺社や貴族がその所有者でした。
ところで、いくら私有地とはいえど、所有者は決められた量の米をしっかりと集め、集積所に納める必要がありました。

しかし、私有地のなかには税を納める必要すらなかったところがあります。それは、寺社の開墾した私有地です。というのも、聖武天皇といえば奈良の大仏であるように、当時の朝廷は仏教の活動で国を治めようとしていました。つまり、税を納めなくていいから国のために祈って!ということだったのです。この、税すら納める必要のない私有地の扱いが、後々問題になってきます。
まとめると、税収は多くなったけど不足していた朝廷の土地は増えず、代わりに様々な私有地が誕生したという状況になったのです。
ワガママ貴族は全部を着服したい(800~900年代)

さらに時代が進むと、朝廷内にとても強力な力をもった貴族が現れます。その中でも特に有名なのは藤原氏です。
彼らは余裕があるのでたくさん開墾を行い、私有地もたくさん保有していました。そして、私有地の管理者でもあるのでそこから米を集め、責任をもって朝廷の集積所へ納めていました。
しかし、集めた米を運びながらで彼らはこう考えます。
「この米、自分の土地からとれたんだから、朝廷じゃなくて全部自分の財布に入ったらなー」
国の法律やシステムを完全に無視したワガママな思いつきなのですが、彼らはとても強力な力を持っています。言い換えれば、法律やシステムを内側から変えることができるのです。
ということで、彼らはその思い付きを合法にしてしまいました。特定の有力貴族の私有地からは税(米)を納めなくてもよい、ということになったのです。 もともと寺社の私有地は税を逃れていましたが、その特権を貴族も得ることになったのです。
これにより、「墾田永年私財法」によって誕生した私有地からの矢印の多くが所有者で止まることになり、有力貴族の財布は急激な速度で膨らみだします。
さらに、これを見ていた各地の私有地の所有者も動きだします。
まず、書類上は自分の私有地を有力貴族に譲り渡します。そうすることで、その土地は有力貴族の私有地ということになり、税を朝廷に集積所に納めなくてもよくしたのです。
そして、彼ら自身は私有地管理者の立場に収まると、米を税に代わって「年貢」として徴収し、そのうちいくらかを所有者になってもらった貴族へ個人的に納めました。そして、あとの残りはまるっと彼らの財布に入ったのです。つまり、私有地の年貢を徴収するにあたって、いわゆる中抜き構造が発生したのです。
さらに、所有・管理権はもともと個人にあり、税も納めなくてよくなったということで朝廷の役人の立ち入りすら拒否するようになりました。これにより、私有地は朝廷の支配が及ばない、本当の治外法権の場になりました。
この変化により朝廷は私有地からの税収が急激に減少し、財政は苦しくなりました。代わりに、有力特権貴族や私有地管理者たち個人の財布は、どんどん膨れることになりました。
朝廷は一旦安定した税収が欲しい(900年代後半)

私有地の収穫を所有者が個人で独占するようになり朝廷自体の財政が悪化すると、全国規模のシステムを維持するのが難しくなっていきます。各地で施設の整備が行き渡らなくなったり、しまいには役人の給料すら滞ったりするようになりました。
さらに、財政が厳しいので各地の治安維持やインフラの整備も満足にできなくなります。
そこで、朝廷は全国一律で管理することをあきらめることにしました。そして、とにかく安定した税収が都にくる状態を目指すことにしました。
各地に設置されていた集積所(国衙)の担当役人(国司)に、担当地域において多くの独自決定権を与えました。そうすることで、指定した量の米を集積所から都まで納めるための手段に大幅な自由を認めたのです。
ついでに、朝廷からの支払いが滞っていた給料分の米や、警察業務や山賊退治といった治安維持の費用も、独自の税として担当地域から徴税してよいことにしました。
これにより、集積所の担当役人(国司)は民衆から好きに米を徴収できるようになりました。そこで彼らは、朝廷が指定するノルマより多めに米を集めることで、残りを自分の財布にしまうようになります。
ここに、私有地だけでなく朝廷の農地でも、役人による中抜きが行われるようになったのです。これにより、全国の農民はいままでの分に中抜き分が上乗せされた量の米を持っていかれるようになり、暮らしはより苦しくなりました。
天皇家は自分にお米を集めたい(1000~1100年代)
時代がすすむと、有力貴族は発言力を弱め、代わりに天皇家自体が強権的にふるまうようになりました。天皇家が権力を持つようになったため、書類上の私有地は天皇家のものに集まり、米の行きつく先も天皇家に集まりました(天皇家自体の私有地は有力貴族同様税を納めるひ必要がありませんでした)。
一方で、朝廷自体の財政はますます苦しくなります。ついには、上級特権貴族たちへの給料すら滞るようになりました。
そこで朝廷は、新たに集積所役人(国司)をまとめるポジション(知行国司)を新設し上級貴族を任命しました。彼らの仕事は担当の国を管理し、そこの集積所役人(国司)を任命することです。そして、自身の任命した国司を通じて給料分の税(米)を徴収し、自身の財布に入れることを認められていました。
ところで、役人として働く中小貴族からしてみれば、知行国司に任命されなければおいしい中抜きポジション(国司)になることはできません。そこで、中小貴族たちは知行国司に贈り物をしたり、言うことを聞いたりすることで彼らに取り入ろうとします。結果ここに、知行国司が給料以外にも、国司個人からその役職に推薦したお礼を受け取り、財布にしまう仕組みが完成しました。
これを、知行国制度といいます。もはや、徴税システムはただ朝廷の財布に米を集めるのではなく、正式に貴族の財布に米を届ける仕組みになっていたのです。
さらに、この知行国司を任命できるのは当時権力をもっている天皇家でした。彼らは、上級貴族たちに自分のいうことを聞かせる代わりに知行国司に任命しました。そして、任命した知行国司から個人的なお礼を受け取って財布を膨らませていました。この財源をもって、天皇家はさらに拡大します。
武士は中抜きポジションを奪いたい(1100年代)
時代が進むと
・自身の私有地からの年貢や名目上の所有地からの貢ぎ物、利権の収益でくらす
上級特権貴族 & 寺社団体
・集積所担当役人や私有地管理者として年貢と中抜きで暮らす
中小貴族
・米を生産する農民
といういままでの身分の図式(※本当はもっと複雑です)に加えて、「武士」という種類の人々が生まれます。
彼らは、朝廷の治安維持が及ばなかった地域などを中心に出現しました。主に裕福な農民や、先祖が開墾した私有地の管理人として代々住んでいる下級貴族が、自分たちの土地を守るために武装した人々でした。
当初、彼らは治安維持や防衛といった役割が強く、高度な政治にはあまり関わっていませんでした。
しかしながら、生まれが貴族の人物が武士に仲間入りしたり、武士の生まれながら朝廷の意思決定に関わる人物が現れたりするようになると、政治制度においても彼ら特有の「代々受け継いできた農地を、いままでもこれからも、外敵から守って受け継いでいく(一所懸命)」という考えが徐々に介入するようになります。これは、各地を任期ごとに転々とする中小貴族の役人や、都にいるだけの上級特権貴族とは全く異なるものでした。
そして、源頼朝が鎌倉幕府を開くと、全国の徴税システムが一気にこの「武士特有の価値観」の押し出された仕組みへ変わりました。
というのも、源頼朝が鎌倉幕府を開くときに、彼は「地頭」と呼ばれる役を全国の朝廷の土地と私有地に認めてこれの立場を幕府が保障して守ることを朝廷に認めさせました。
地頭の仕事は、二つありました。
まず一つは、自身の活動資金(米)を担当地区から集めること。
もう一つは、私有地で年貢や税を集めてより上の人々に納めることです。つまり今までの私有地管理者の役割を地頭が担当することになったのです。
また、集積所に米が集められていた朝廷の土地にも地頭が配属されます。そこにいる農民は、今まで通り集積所に納める米とは別に、地頭にも米を回収されるようになりました。そのため、農民はさらに困窮しました。

ところで、幕府の長である将軍は関東一円の知行国司になっています。そのため、幕府自体の財政は関東各国の集積所(国衙)を通じて賄われていました。
これにより、あいかわらず朝廷の財政は苦しいまま徴税システムにおけるおいしい中抜きポジションが、武士の価値観のもと有力貴族や朝廷によってではなく幕府によって認定され、また保障されるようになりました。結果、多くの米が地頭や幕府の財布に行きつくようになり、武士階級の力は強まりました。
もっとも、そのポジションには朝廷の財政が安定していた時とは違い治安維持や防衛といった仕事も加わっているため、訓練をして武力を行使できる武士がその役割に収まったのは当然の成り行きでした。
大名は税を地産地消したい(1400~1500年代)

さらに時代が進むと、幕府が内部紛争などによってうまく機能しなくなります。それは、中抜きポジションの保障がなくなることを意味しました。つまり、先祖代々管理して受け継いできた土地が誰かに奪われそうになっても、助けてくれないということです。
ところで、この時期になると、各地にたくさんいた地頭は、守護という地域の地頭を統率するために設置された役職に吸収され、守護がその役割を担っていました。
そんな状態になったので、生まれの身分に関係無くとにかく実力を持った人物が上に立つようになります。さらに、彼らは争ってはより強い勢力にどんどん併合され、ついには大名が誕生します。
そして、大名は支配地域の安全保障をめぐって熾烈で、さらに規模の大きい争いを繰り返すようになりました。すると、強い軍隊が必要な彼らは、朝廷や私有地所有者に納めるはずだった年貢を納めることなく、自身の支配地域の統治と軍隊の強化に使うようになりました。
ここで、米の矢印はみんな大名で止まってしまい、大化の改新以来朝廷に集まっていた矢印が、極限まで細くなりました。当時の朝廷は、大名に官位を売ったり、寄付を得たりすることでなんとか存続していました。この時代の書籍には、当時の皇居が修理もできずにボロボロになっているエピソードが見られることも珍しくありません。
地域の有力者の財布が膨らみ、朝廷の収入がほとんどないこの状況は、見方によってはちょうど大化の改新の直前の状態にまで戻ったと捉えることができます。
刀狩りで区別される生産側と徴収側(1588年)
大名による争いは、最終的に豊臣秀吉によって平定されます。
その後、秀吉は「刀狩り」を行うことで、徴税システムにおける身分の区別を明確にします。もともと、武士は米を生産する側の身分であり、平時には農耕に従事していました。農耕を一切しないような上流特権貴族と農民の区別はついても、武士と農民の境界はとても曖昧だったのです。
しかし、刀狩りによって元々農耕に従事して米をとられていた側の人々が、
・刀を持っていて 徴税をして地域行政を担う 武士
・刀を持っていなくて 米を生産して年貢を納める 百姓
に明確に区別されたのです。
朝廷は収入が少ない中でなんとか存続。ワガママ貴族の時代以来、私有地からの年貢や徴税時の中抜き、利権で暮らしてきた貴族はほとんど収入がなくなって没落。年貢を集めて使う、矢印のほとんどが行き着く先である武士。年貢を納め続ける百姓。という階級が明確になったのです。
ちなみに、私有地が誕生した時から税を納めることなく財布を膨らませ、力をつけていた寺社団体ですが、大名の出現とともに彼らの勢力争いに巻き込まれ、しまいには彼らに吸収されて消滅しています。
藩は換金したい(1600~1800年代)

秀吉政権がおわると、徳川氏が権力を握り江戸幕府が開かれます。その時代では、米を納める百姓が土地の移動を制限され、さらに百姓の中でも階級構造が生まれました。
この時代では、武士階級が「藩」にまとめられ、支配地域の米を年貢として徴収しました。この支配領域と、そこで管理や徴税をする立場は、幕府によって認定&保障され、自由に統治することができました。
この状態は、鎌倉幕府ができた状態と似た構造であるとみることができます。しかし、保障しているポジションに明確な違いがあります。
鎌倉幕府のときは、あくまで農民から税を徴収した後より上の人々に納める、中抜きポジションを幕府が保障していました。それに対し、江戸幕府は矢印(米)が行きつく最終地点としての、地域の藩の立場を保障しています。いわば大化の改新前の豪族のポジションを保障していると考えることができるのです。その意味では、同じ幕府でも性格が少し違ったものだったのです。
明治政府は徴税したい(1800年代後半)
1800年代後半になると、江戸幕府、徳川政権の転覆を狙う明治政府が動き出します。そして、ついに江戸幕府は滅亡します。
そこで、明治政府が統治を行うようになると税制の改革を行います。
まず、土地の持ち主を定めて、その土地の価格に応じて固定額をお金で納めさせたのです。これを地租改正と言います。
ここに、米が税として納められるのが終わり、現代の感覚に近い税金が導入されました。
今までは米の収穫量で税の収入も変わっていましたが、土地の価値に基づいた固定のお金で税金を徴収したことで、政府の収入の安定に繋がった一方、農民の負担は重くなりました。
その後は、現代でもお金による税金の徴収がされています。
「税」と「米の流れ」からわかること
いかがだったでしょうか。米の行きつく先やそれまでに関わる人々に着目すると、時代を担った人々がいかに徴税システムに携わり自身の財布を膨らませようと努力をしていたかがわかると思います。同時に、権力者の交代がいかにしておこったのか、もまた理解しやすくなる切り口になると思います。
さらに、このように歴史を俯瞰すすることで
・朝廷(天皇) ・貴族 ・武士 の権力の移り変わりも理解しやすくなると思います。
ちょっとしたテーマに基づいて、歴史を通してみるのはおもしろい発見に出会えるときがあるので、皆さんも興味あるテーマから考察をしてみると面白いですよ!

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