
なぜ勉強をしなければいけないのか?東大で感じた5つの理由
東大生が考える、勉強をしなければいけない理由
お久しぶりです。ハイストライターのムロです。
「勉強なんて、結局なんのためにするんだろう。」
多くの人が一度はそう思ったことがあるのではないでしょうか。
私自身、東大に入るまで、そして入ったあとも、その問いから逃げられませんでした。しかし最近様々な人と関わる中でようやく自分なりの結論を出すことができてきたので、単なる受験や就職のためではなく、「人生の土台」という普遍的な視点から、私なりの結論を共有したいと思います。
人生の土台:お金だけでは満たされない「意味を求める心」
人生を豊かにするものといえば、まず「お金」や「安定」を思い浮かべるでしょう。しかし、世界中を旅し、成功を収めた多くの人が語るのは、「お金では満たされない虚しさ」です。
私たちは、美味しいものを食べる、好きな場所に行くといった「自分のため」の欲求だけでなく、「誰かの役に立ちたい」「社会に良い影響を与えたい」という他者への貢献や社会への還元といった欲求を遺伝子レベルで持っています。心理学では、これを 「自己超越」の欲求と呼びます。
この自己超越、つまり自分の人生に「意味」を見出す行動こそが、脳を活性化させ、幸福感を高めることが分かっています。
「利他行動」がもたらすドーパミン
実際に科学的根拠として、ある研究では、人や社会のために行動しているとき、脳の報酬系(快感を感じる回路)が活性化し、ドーパミンが放出されることが示されています。これは、美味しいものを食べたときやお金を得たときと同じ反応です。そして、同じ報酬でも「自分のため」より「誰かのため」に得たもののほうが、幸福感が長く続くのです。
人はなぜ「学ぶこと」で満たされるのか:マズローの欲求5段階説で見る“成長の構造”
先ほど触れた“自己超越”という言葉を、ここで少し詳しく掘り下げてみましょう。
心理学者マズローは、人間の欲求を5つの段階で説明しました。下から順に、生理的欲求・安全の欲求・所属と愛の欲求・承認の欲求・自己実現の欲求。これらは段階的に発展し、より上位の欲求ほど「精神的な充足」を目指すようになるとされています。
最初の2つ──「食べたい」「安心して眠りたい」といった生理的・安全的な欲求は、誰もが共通して持つ『生きるための本能』です。その上に「人とつながりたい」「認められたい」という社会的・心理的な欲求が生まれ、やがて「自分の可能性を最大限に発揮したい」という『自己実現』へと進みます。
しかし、マズローは晩年、この上にもう一段階——「自己超越」を置きました。それは、自分の利益や満足を超えて、「他者や社会のために生きたい」「より大きな意味の中で貢献したい」と願う段階です。私たちは、成長の過程で少しずつ 「自分のため」から「誰かのため」へと意識の重心を移していく生き物なのです。
勉強は、5段階すべてをつなぐ「共通通貨」
ここで注目したいのは、どの段階においても勉強が機能しているという点です。
- 「生理的・安全の欲求」を満たすには、働いて生活を守る知識やスキルが必要。
- 「所属・承認の欲求」を満たすには、他者との関係を理解し、対話する力が必要。
- 「自己実現・自己超越」に至るには、自分の思考を深め、社会構造を理解し、創造的に行動する力が必要。
つまり勉強とは、どの段階を生きている人にとっても、その次のステージへ進むための鍵なのです。それは決して「いい大学に入るため」だけのものではなく、自分の人生をより広く、深く、面白くしていくための「階段」なのです。
東大での体験から感じた「学びが階段になる瞬間」
私自身、東京大学に入って最も印象的だったのは、「勉強の目的の多様さ」でした。ただひたすらに物理の法則を解き明かしていきたい人もいれば、AIを研究して教育の仕組みを変えようとする人もいる。他にも何かしらの「自己超越」に向かっている人が多くいました。それは 「社会を変えたい」ほど大げさなものでなくても、「困っている人を少しでも減らしたい」「自分の好きな分野で誠実に成果を出したい」といった静かな動機でもいい。 勉強を重ねるほど、その「次の階段」が見えてくる感覚があるのではないでしょうか。
勉強の正体:世界を「解像度高く」見る技術
では、「意味を生み出す力」は、具体的にどう生まれるのでしょうか。その土台となるのが「勉強」です。すなわち勉強とは、知識量そのものではなく、「世界に対する解像度」を上げるための訓練なのです。
同じ風景でも「見える情報」が違う
例えば歴史を学んだ人は今の国際紛争を見たとき、その根底にある民族の歴史や過去の条約といった「伏線」が見えるため、短期的な感情論ではなく、本質的な解決策、もしくは解決がいかに困難かを考えることができます。
しかし、最近のニュースをみていて感じるのは「誰々が100%悪い」といった二元論に持ち込む人があまりにも多いということです。なぜこういった状態になっているかというと、そういう言説を唱える方が主張が伝わりやすいからです。
しかし、現実に二元論で物事を語れることはほとんどありません。だからこそ、受け取り手である私たちが、複数の情報と、これまでに積み重ねてきた学びをもとに、物事を多角的に認識することが大切なのです。
他にも物理や化学を学んだ人は最新技術のニュースを見たとき、その技術が「どこまで実現可能か」「どのような科学的限界があるか」についての説明がある程度理解でき、すぐに騙されないリテラシーを持つことができます。
デジタル社会の現代では、新たな情報が次々と私たちの目に飛び込んできます。その真実と嘘が入り混じっている情報の選定にも、勉強することは非常に重要です。
つまり、私たちが学校で学ぶことは、社会や自然、人間の「普遍的な仕組み」です。この仕組みを理解していれば、目の前の出来事が「たまたま起こったこと」ではなく、「構造的な問題」として見えます。これが、「他者と世界を理解し、その中でより良い選択をする力」に直結するのです。
「変化」を自分の力に変えるための基礎体力
「変化対応力」と可塑性
学生時代が終わっても、社会人になって「勉強」の価値はむしろ高まります。なぜなら、社会に出た瞬間から、世界は誰にも正解を教えてくれなくなるからです。
実際、現代社会は、VUCA(変動性・不確実性・複雑性・曖昧性)の時代と呼ばれ、変化のスピードは加速しています。勉強を、「時間がかかるし、AIに全部聞けばいいじゃないか」と考えるのではなく、『資産』であると捉え直してみてください。
勉強したことは、すぐに使われることはなくてもいざという時に思考の土台を固め、思考のスピードを上げるという形で役立ちます。知識が知識と結びつき、新たな発想を生み続けるのです。
そして、脳科学では、新しいことを学び、訓練することで、脳の神経回路が変化する性質を「脳の可塑性」(シナプスの可塑性)と呼びます。
勉強とは、この「脳の可塑性」を使いこなし、変化を自分の力に変える技術そのものなのです。
AIが登場したとき、「自分の仕事が奪われる」と絶望するのか、「AIを使いこなす知識を学び、自分の生産性を上げる」と考えるのか。
新しい価値観や市場が生まれたとき、「理解不能」と切り捨てるのか、「そこに隠された仕組みやニーズを分析する」と考えるのか。
こういった判断の差は、学生時代から培ってきた「知らないことを知ろうとする姿勢」と「新しい概念を受け入れる脳の柔軟性」から生まれます。
学び続けている人は、未知を恐れず、むしろ面白がれる。
それが、どんな時代にも通用する強さだと思います。
ギャンブルの必勝法を探ることも勉強!?
たとえば、東大生には知的好奇心をそのまま「遊び」に転換してしまう人がたくさんいます。特に印象的だったのが、統計学を専攻している友人が「競馬の戦略」にのめり込んだエピソードです。彼はギャンブルそのものに興味があったわけではありません。彼が熱中したのは、「競馬で勝つ馬の特徴は何か、血筋、前走タイム、馬の大きさなど様々な複雑な要素の中から重要な因子を割り出す」というものでした。
彼は、大学で学んだ高度な確率・統計の理論を総動員してシミュレーションを繰り返しました。周囲から見れば「遊んでいる」かもしれませんが、彼にとってそれは、教科書で学んだ抽象的な理論が、現実世界で機能するかを検証する「研究」 だったのです。
結果としては必勝法が見つかったわけではなく、数字だけで判断することの限界を感じたそうですが、、、
このように知識を遊んで使いこなせる人ほど、未知の領域を「面白そう」という好奇心で乗り越えることができます。これもまた、学びがもたらす大きな恩恵の一つです。
意味を伝達する力:知識を「共通言語」に変える
どれだけ深く世界を理解していても、それを他者に伝え、共感や行動を促せなければ、「意味を生み出す」ことはできません。ここで必要になるのが 「言語化能力」 です。
勉強とは、複雑な概念をシンプルに捉え、他者が理解できる 「共通言語」 に変換する能力を鍛えます。
例えば、経済学を学ぶことで、複雑な市場の動きを「需要と供給」というシンプルなフレームで説明できます。他にも心理学を学ぶことで、相手の行動原理を「承認欲求」という言葉で理解し、適切なコミュニケーションをとれるようになります。
このように勉強によって得た知識は、コミュニケーションの土台となります。知識を共通言語化することで、初めて人は協働し、社会に影響を与える大きな「意味」を生み出すことができるのです。
【結論】勉強は「より深く生きる」ための習慣である
なぜ、私たちは勉強しなければいけないのか。
それは、「自分の人生のハンドルを、誰にも渡さないため」 です。
知らないことは、選択肢を奪います。構造が理解できないことは、不安を生みます。そして、変化に対応できないことは、誰かのルールの中で生きることを意味します。
勉強とは、他者に褒められるためでも、良い評価を得るためでもありません。
知ることで、自分と世界のつながりが見える。
理解することで、誰かを助ける力が生まれる。
そして、学び続けることで、人は少しずつ「意味のある人生」を自らつくっていける。
勉強は義務ではなく、人生をより深く、より面白くするための習慣です。 それを続ける人ほど、長い時間の中で「生きる楽しさ」と「自己肯定感」を見つけていくでしょう。
勉強とは、「自分の世界を広げ、人生の解像度を上げる技術」である。
そう確信できたとき、あなたの人生は、すでに少しだけ「面白く」なっているはずです。

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