
ハイスト謎#13 命がけ?
ハイスト謎#13
それでは本日の1問です。
難易度:☆☆☆*空欄にはそれぞれ異なる画像が1つずつ入ります
自力で解きたい方はスクロールをしないようお願いします。下で解答・解説を表示します。
どうしても行き詰まってしまった場合は教科書や資料集、ネットなどに頼っても大丈夫です。
ヒント:年号の語呂合わせを思い出してみましょう
解答・解説
10個の画像はそれぞれ、このように読むことができます。
その中で、年号に関わりそうなものがいくつかありますが、今回は「白紙」を使います。「白紙(894)に戻す遣唐使」という語呂合わせを覚えている方も多いのではないでしょうか。
よって、画像をこのように文章の空欄に当てはめることで、
「894年、遣唐使は廃止された」
という文が現れます。
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最初の遣唐使は630年。犬上御田鍬(いぬがみのみたすき)らが派遣されました。遣唐使の目的としては、先進国であった唐の文化や制度を学び、日本を発展させていくことにありました。
また、朝鮮半島情勢に関する情報収集の側面もあり、663年の白村江の戦い(唐・新羅vs百済・日本)周辺では短期間に6回も遣唐使が派遣されたとされています。
中でも律令制度(刑法、民法などの法律)と仏教の学習は安定した政治体制を目指す日本にとって急務で、吉備真備や阿倍仲麻呂、空海や最澄など多くの政治家や僧が留学生として唐に渡りました。
一方で、唐に渡ることは大きな危険を伴うものでした。航海技術もまだ未熟だった当時、難破などによる事故は珍しくなく、何隻もの船に数百人の大所帯で唐を目指したのも「どれか1隻でも唐に到着してくれればいい」という考え方からだそうです。
阿倍仲麻呂が唐から日本に帰国しようとするも暴風雨にあって帰れず、結果的に唐でその生涯を閉じたエピソードや、鑑真が5度の渡航失敗や失明の末ようやく日本にたどり着いたエピソードからもその過酷さがよく分かります。
そんな遣唐使ですが、9世紀半ばになると存在感が薄れていきます。これは唐の政策変更により留学生への好待遇が失われたことや、民間の貿易(条件付き)が認められわざわざ遣唐使を送らなくてもよくなったことが要因として挙げられます。日本の政治家の間でもその存在意義に疑問が持たれ、894年、菅原道真の建議により遣唐使は廃止されました。
おわりに
いかがだったでしょうか?
ちなみにその後唐は907年に滅び、五代十国という短い期間にいくつもの王朝が乱立する激動の時代を経て960年に統一王朝である宋へと時代は動いていきます。
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