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ササノンのちょっと深ぼり歴史トーク#1 明治時代のラップソング!?オッペケペー節を探る

ササノンのちょっと深ぼり歴史トーク#1 明治時代のラップソング!?オッペケペー節を探る

投稿日: 2025年10月09日
最終更新日: 2025年10月09日
ササノン制作班ササノン制作班

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ササノンの歴史四コマ
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オッペケペー節とは


テーマに関連する銅像の写真
オッペケペー節とは、明治時代に流行った歌です。
ノリのいい七五調の歌詞と、クセになる掛け声で時代を席巻しました。
大阪で初めて歌われましたが、半年もたたずに東京へ進出。
当時弾圧されていた政治意見や社会への不満を、歌という形でズバズバ表現したので、民衆を中心に大流行しました。

クセの強い作者


オッペケペー節の作者は、川上音二郎という男性です。
川上音二郎(1864年~1911年)
彼は、かなり波乱万丈な人生を歩んだ人物でした。

福岡の裕福な家に生まれましたが、14歳で家を飛び出して大阪に密航。その後、東京に向かい、各地を転々としていたところを、福沢諭吉と出会い、慶應義塾の書生になりました。

その後、芝居小屋などで興行師をする傍ら、政治活動を展開。街頭演説をしたり、新聞を制作したりしました。しかし、それが原因でなんと100回以上も逮捕されてしまいます。それでも、彼はめげることなく活動を続けました。

ところが、政府に完全に目を付けられてしまい、ついに演説も禁止されてしまいます。

そこで、音二郎は弾圧されないような方法を考えます。
そしてついに、彼は仕事としていた興行師の活動を利用することを思いつきました。

当時、落語などを楽しむ寄席で人気だった歌にインスパイアされて、歌詞に政治批判と社会風刺をふんだんに盛り込んだ歌を作詞したのです。そして、後世まで語り継がれる名曲、「オッペケペー節」が誕生しました。

結果、音二郎の作戦は大成功。それは、またたく間に民衆の間で大流行し、自由民権運動の後押しになりました。

クセになる歌詞


川上音二郎が苦節の末に制作したオッペケペー節、その歌詞はどんなものだったのでしょうか。実は、この曲は10数種類も歌詞が制作されました。youtubeには、当時の音源も投稿されていますので、よかったら聞きながら歌詞を追ってみてください。

下記はwikipediaより引用したものです。動画の音声とは歌詞が異なるものになります

権利(けんり)幸福(こうふく)きらいな人に。自由湯をば飲(の)ましたい。オツペケペ。オツペケペツポー。ペツポーポー。

堅(かた)い上下角(かど)とれて「マンテル」「ヅボン」に人力車意気な束髪(そくはつ)ポン子ツト。貴女(きぢよ)に伸士(しんし)のいでたちで。外部(うはべ)の飾(かざり)はよいけれど政治の思想(しそう)が欠乏だ。天地の真理(しんり)が解(わか)らない。心に自由の種(たね)を蒔(ま)け。オツペケペ。オツペケペツポペッポーポー

米價(べいか)騰貴(とうき)の今日に。細民(さいみん)困窮(こんきう)省(みかへ)らす目深(まぶか)に被(あ)ふた高帽子(たかほうし)。金の指輪(ゆびわ)に金時計。権門(けんもん)貴顕(きけん)に膝(ひざ)を曲け。藝者(げいしや)たいこに金を蒔(ま)き。内には米を倉(くら)に積(つ)み。同胞(どうほう)兄弟見殺(みごろし)か。幾等(いくら)慈悲(じひ)なき慾心(よくしん)も。餘り非道(ひどう)な薄情(はくじやう)な但し冥土(めいと)の御土産か。地獄(ぢごく)でゑんまに面會し。わいろ遣ふて極楽へ。行けるかへゆけないよ。オツペケペ。オツペケペツポーペツポーポー

亭主の職業は知らないが。おつむは当世のそくはつで。ことばは開化のかんごで。みそかのことわりカメだいて。不似合だ。およしなさい。なんにも知らずに知た顔。むやみに西洋を鼻にかけ。日本酒なんぞはのまれない。ビールに。ブランデー。ベルモツト。腹にもなれない洋食を。やたらに喰ふのもまけおしみ。ないしよでこうかでへどついて。ましめな顔してコーヒ飲む。おかしいね。ヱラペケペツポ。ペツポーポー

韻を踏んでいて、ノリのいい歌詞と、つい口ずさんでしまう掛け声は、現代にも通用しそうな中毒性があります。

日本人最古のレコード曲


レコードの画像
実は、オッペケペー節は、日本人の声が収録された最古のレコード曲です。
それは、川上音二郎の一座がヨーロッパとアメリカで興行をすることになった時、イギリスのレコード会社によって録音されたものでした。音二郎本人の肉声でこそないものの、とても歴史的な曲でもあるのです。

まとめ


川上音二郎の強い志しによって生み出された流行歌は、現代でもきけるような素晴らしいものでした。一説には、日本最古のラップソングとも言われています。教科書などで名前だけ知っていた歌も、実際に聞いてみると興味深くておもしろいですね!




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