
ハイスト謎 大垣三城歴史カードラリー特別編
大垣三城歴史カードラリー
2025年6月11日(水)から2026年3月15日(日)にかけて、ハイストは岐阜県大垣市で大垣三城歴史カードラリーを開催します!
多羅城(上石津郷土資料館)・墨俣一夜城・大垣城を巡って、三城ゆかりの人物の限定カードを獲得することができます。
また、三城で集めた3枚のカードを持って奥の細道結び地記念館に行くと、踏破賞として石田三成の限定キラカードをプレゼント!
前中後期でもらえるカードは全て変わるので、4施設×3期の全12種のカードをコンプリートしよう!
6月11日からの前期開催に先駆けて、三城にまつわるかもしれない謎を持ってきましたのでぜひお楽しみください!
ハイスト謎 大垣三城歴史カードラリー特別編
それでは本日の1問です。
難易度:☆☆
自力で解きたい方はスクロールをしないようお願いします。下で解答・解説を表示します。
どうしても行き詰まってしまった場合は教科書や資料集、ネットなどに頼っても大丈夫です。
ヒント:漢字や画像をひらがなに直して考えてみましょう。
解答・解説
ではまず、上の式から確認していきます。画像が表しているのは「天守」なので=の右には「うんてんしゅ」が入ることが分かります。
次に、下の式を確認すると、画像は「石垣」を表しています。
ここで「かいしん」に対して「いしがき」を適用することで、矢印の右側には「かきん」が入ることが分かります。
上記から、文字を数字の順に当てはめるとこのようになり、答えは「きんきゅう」であることが分かります。
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墨俣一夜城
さて、緊急、といえば墨俣一夜城ですよね!
墨俣一夜城は、織田信長の美濃国侵攻の折、木下藤吉郎(豊臣秀吉)がわずか一夜で完成させたとされる城です。
1566年、織田信長は美濃侵攻の拠点とするため、美濃領内、長良川の中州に位置する墨俣に砦を築くよう家臣の佐久間信盛に命じます。
しかし場所が敵地のど真ん中であったため美濃三人衆の襲撃を受け失敗、その後柴田勝家も築城に挑みますがこれも失敗に終わります。
ここで名乗りを上げたのが木下藤吉郎です。藤吉郎は川の上流で木材を切り出し組み立てるだけの状態にして、大雨で戦闘が中断された際に川をいかだで下り一夜で砦を完成させてしまったのです。
現在その跡地には歴史資料館があり、大垣城を模した天守がそびえています。ただ築城当時は柵や砦といったより簡素な作りだったようです。
また、敷地内には大阪の豊国神社から分祀された豊国神社も鎮座しており、秀吉が祀られています。立身出世を願う方はぜひ参拝してみてください。
多羅城
他の二城に関してもざっくりと解説を行っていきます。
多羅城は大垣市上石津多良地区にかつてあったと推察される戦国時代の城館です。関ケ原の戦い以前にこの地を治めていた関一政が築いたとされています。
地区の中でも多羅城の場所には諸説あり特定には至っていませんが、地名に「城」が入る地点はいくつかあり多羅城所在地の候補となっています。
また、多羅城は明智光秀の生誕の地ともいわれています。光秀の前半生(信長に仕える前)に関しては記録がほとんどないのが難点ですが、「明智氏一族宮城家相伝系図書」によると光秀は「石津郡多羅」が出生地であると書かれており、生誕地の候補となっています。
*カード配布は上石津郷土資料館にて行っております
大垣城
大垣城は美濃守護・土岐一族の宮川吉左衛門尉安定によって1535年に創建されたといわれています。
大垣城は交通・戦略上の要衝であったため豊臣政権下では秀吉の甥である羽柴秀勝が入るなど整備拡張が行われ、関ヶ原の戦いでは当時の大垣城城主伊達盛宗が西軍についた関係で石田三成はじめ西軍10万人の拠点となりました。
しかし関ヶ原で西軍が敗れると大垣城はすぐに包囲されて落城してしまいます。
江戸時代以降は戸田氏が10万石の領主となり、11代に渡って明治まで太平の世が続いたようです。
明治6年に大垣城は廃城、第二次世界大戦時の空襲により残った天守や櫓も焼失してしまいますが、現在では当時を模した天守や城門が復元され、「大垣城跡」として大垣市指定史跡に指定されています。
おわりに
いかがだったでしょうか?大垣三城歴史カードラリーは6月11日よりスタートです。ハイストプレイヤーはもちろん、三城の歴史に少しでも興味のある方はぜひ訪れてみてください!
ありがとうございました。

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