
ハイスト謎#5 開国の音?
ハイスト謎#5
それでは本日の1問です。
難易度:☆☆☆☆☆
このように左の文字列が右の言葉に変換されるとき、
「せいか←い↑い↑ん↑」はどのように変換されるでしょうか?
自力で解きたい方はスクロールをしないようお願いします。下でヒント、さらに下で解答・解説を表示します。
ヒント:この表の形、どこかで見たような...?
解答・解説
今回は、表がスマートフォンのフリック入力の配列と同じ形であることに気づけるかが問題のポイントでした。
問題文の誘導に従い、表を参照しながら「せいか←い↑い↑ん↑」と入力すると、
答えは「perry」であることが分かります。
1852年11月、東インド艦隊司令長官に就任したマシュー・ペリーは、当時一大産業だった捕鯨の寄港地、そして巨大市場であった清への中継地として日本を開国させることを目指します。
アメリカ大統領ミラード・フィルモアの親書を携えてバージニア州ノーフォークを出発すると、1853年7月に浦賀に来航しました。オランダからの通告により幕府は事前にペリー来航の情報を得ていたものの、幕府上層部にアメリカ警戒派が少なかったことなどから浦賀の末端まで伝わってはいませんでした。
浦賀に来航した艦隊は「サケスハナ」「ミシシッピ」「サラトガ」「プリマス」の4隻で、日本がこれまで知っていた(イギリス・ロシア海軍などの)帆船とは違い、外輪と蒸気機関を有する黒塗りの船体でした。この様子からこれらの船は「黒船」と呼ばれました。
停泊中も江戸湾の勝手な測量や空砲(実際はアメリカ独立記念日の祝砲)、低階級奉行への親書預け拒否など幕府に脅しをかけ、(12代将軍徳川家慶が病床に伏せていたため)1年後に返事を得る約束を取り付けます。
しかしその後家慶が死去したことを知ると、ペリーは退去から半年後である1854年2月に浦賀に再来航します。これは政局の混乱をついた策といえ、ペリーの外交手腕が見て取れます。
その後の交渉において日本側は薪水、食料、石炭の供与および難破船と漂流民救助を了承し、一方で通商は認めず、最終的にアメリカ側もこれを了承しました。下田と箱館を開港し、1か月に及ぶ協議の末1854年3月31日に日米和親条約が締結されました。
これにより約200年続いていた鎖国は解かれ、日本は幕末、そして明治維新へと激動の時代を歩んでいくことになります。
おわりに
いかがだったでしょうか?
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