
理系の答えは一つなのか? ~文系との違い~
しばしば、
「理系の答えは一つで、文系の答えはいろいろある」
といったことがよく言われます。
たしかに、数学の問題において計算結果が異なったら困りますし、文系の記述問題はいろいろな模範解答があるのは事実です。
しかし、はたして「理系の答えは一つ」と言い切ってしまって良いのでしょうか?
実は、「理系の答えは一つ」というのは、ある面では正しく、ある面では正しくないといえます。
「理系の答えは一つ」と言い切ってしまう背景には、学び始めの段階で覚えた“公式”や“定理”への学習体験が大きく影響しています。では、その固定観念をいかに超えるか──本記事ではそのヒントを探ります。
よろしくお願いいたします。
「理系の答えは一つ」のとき
理系の答えが一つと言える場合
突然ですが、
「のときのはいくつですか?」
と聞かれたら、多くの人は「 は 」と答えるでしょう。実際にこれは正解であり、これ以外の答えは根本的な条件を大きく変えない限りはありえません。
一方、国語の試験では、模範解答とは違う文章でも正解になったりすることがあったと思います。
こういったことを考えると、「理系の答えは一つ」である一方、「文系の答えは色々ある」といったように思えてきます。
実際、科学は「同じ条件なら同じ結果になる」という風に考えています。これを再現性と呼びます。
例えば、まったく同じ条件で実験を行えば、誰がやっても同じ結果になるということです。科学では、こういった客観的事実を大切にしてきました。
この客観的事実を裏付ける良い方法が数学であったわけです。計算は、誰がやっても、ルールに正しく従っていれば、同じ計算結果が得られます。例えば、同じ具材があっても、つくる人が異なれば料理の出来に差が出ることを考えると、非常に客観的です。
ソーカル事件
ここで、一つ大きな事件を紹介したいと思います。それが「ソーカル事件」です。
「ソーカル事件」とは、物理学者のアラン・ソーカルが起こした事件で、
「専門用語がならべられた、意図的に書かれた大間違いな内容の論文がふつうに通ってしまった」
という事件です。
ソーカルは、科学批判を行っていた多元文化的な人文科学のずさんさを露呈させるという目的で、この論文を書いたようです。これは、当時ものすごく大きな問題になりました。
なぜ大間違いな内容がふつうに通ってしまったのでしょうか。その理由としては、以下の点がいわれています。
一つ目は、外部査読を経ず編集委員判断で採択されていたこと、二つ目は掲載された号が科学批判特集号であり、都合がよかったこと、三つ目はそれっぽい内容が難しい言葉で書かれていたことがあったようです。
この結果、学術誌のレビュー体制の不備を暴露し、再現性+査読という科学の客観性の大切さが示されることとなりました。また、解釈には自由がある一方、根拠は必要であるということもいわれました。
実際、ある法律に対して解釈が色々あるということは現在でも起こっていますが、まったく根拠のないでたらめな解釈は通らないということです。また、歴史学でも史料解釈が複数あることはよくありますし、文学批評では、立脚点が違えば結論が分かれるということも良くあります。
このように、同じものをもとにしているにもかかわらず、文系では結論が複数であることがあります。ここは、たしかに文系と理系の大きな違いといえるでしょう。
「理系の答えは一つではない」とき
一方、同じ分量で作った料理でも、調理器具や手順の違いで仕上がりが変わるように、設計図通りだけでは説明できない理系の“答えの多様性”も存在します。
例えば、理系の仕事として、「原発の調査ができるロボットを開発する」ことを考えてみましょう。みなさんはどのようにすれば開発できると考えるでしょうか。
まず、「原発の調査ができるロボット」だと広すぎるので、さらに目的をはっきりさせる必要があります。例えば、放射線レベルを計測するのか、内部構造の撮影を行うのとかいろいろあります。また、人が立ち入れないせまいところに行くのか、比較的空間がある設備内に行くのかでも変わってきます。
目的が決まれば、具体的にどの程度の性能が必要かを考え、どの程度のものを作るのか決めます。センサーの解像度とかバッテリー寿命、耐放射線量などいろいろと決めなければならないことがあります。
そこから実際の機械や材料の設計が始まります。耐放射線用の材料でないと困りますし、坂があるでしょうから、車輪にするかキャタピラにするかなど、駆動方式も検討しなければなりません。
当然ここから、中身の回路やセンサー、プログラムなども考える必要があります。そして、完成したとしても実際に上手くいくかはわからないので、テストを行う必要があります。したがって、最悪の場合、一からやり直すことになるかもしれません。そこまでやってやっと完成までこぎつけます。
以上をまとめるとこのようになります。
- 測定対象(放射線レベル/内部撮影など)
- 可動域(狭所/広所)
- センサー要件(解像度・耐放射線量)
- 駆動方式(車輪・キャタピラ)
- テスト→フィードバック→再設計
このように、理系の仕事には無数の要素が絡んできます。そして、それに対するアプローチもまた無数に存在します。コスト重視を度外視するか否か、特化型にするのか汎用的にするのか、いくらでも考えられることはあります。はたしてこれで、「理系の答えは一つ」といえるでしょうか?
「理系の答えは一つ」であるときとないときの違い
以上までの話をまとめると、「理系の答えは一つ」という主張もそうではないという主張も納得できると思います。いったいどこに違いがあるのでしょうか?
個人的な考えにはなりますが、理系という言葉がどこを指しているのかに違いがあることが大きな原因であるように思います。
「理系の答えは一つ」のときの「理系」はある意味、かなり理想的な条件での理系に関していっていました。実際、
「のときのはいくつですか?」
みたいな問題は、科学を高度に応用する段階では不十分すぎるレベルの内容です。いわば、机上の空論のようなものでしょうか。理論的なことを理想化して考えることには大きな意義がありますが、それだけが科学のすべてかというと、まったくそんなことはありません。
一方、「理系の答えは一つ」ではないときの「理系」はかなり現実的なことを考えており、実際にはいろいろな要素が絡み合っていることを反映したものでした。
数学でも理科でも良いですが、教科書記載の公式は多くが理想条件下で導出されています。そのため、実際はそのまま適用すると、大雑把にはあってるけど厳密には異なったり、前提がおかしいためまったく予想外の結果になることがあります。
よく言われることだと、実際には空気抵抗や摩擦が存在するので現実の系ではもっと複雑なことになります。また、理想気体の状態方程式 は分子間力や分子の体積を無視していますから、これまた実際の系で直接使えることは稀です。
以上のように、「理系」という言葉が何を指すかの解釈で結論が真逆になってしまいました。どういう文脈で話をしているのか今一度考えるようにしましょう。
視野を広く持とう
現代は「学際的」な時代です。「学際的」とは、研究や事業が複数の学問分野にまたがっていることで、要は「異なる分野の人とも協力しましょう」ということです。したがって、思わぬところでまったく関係のなさそうなことにつながる可能性があります。
大学によっては、複数の学科を入試の際希望できたり、大学に入ってから細かい分野を決めるようなところがあります。したがって、「受かったけど、第一志望の学科に入れなかった…」となるかもしれません。しかし、あまり悲観しすぎなくても良いかもしれません。
ここまでで述べてきた通り、目標に対するアプローチは無数にあります。さすがに、「ロボットを作りたいのに農学部に入りました」とかいうことになると厳しいとは思いますが。例えば、同じ工学部であれば、機械系に入らなくても、ロボットとかかわれる可能性があります。特に、電気系であれば回路のことや制御のことを学べると思うので、仕事ではロボットにかかわれる可能性がじゅうぶんにあります。
以上のように、いろいろと勉強して、様々な分野と結び付けていくことが重要だと思います。「理系だから」とか、「文系だから」とかいったことには、あまり縛られなくても良いのではないでしょうか。すなわち、進路を固定化しすぎる必要性はあまりないかもしれません。
おわりに
本記事では、「理系の答えは一つで、文系の答えはいろいろある」という通説に対して、個人的な考えをもとに検証してきました。
まとめとしては、
- 解釈という観点で、文系の答えはいろいろある
- 再現性という観点で、理系の答えは一つである
- 実際に理系の知識を利用しようとする際は様々なアプローチがあり、答えは一つではない
となります。
納得していただけたら幸いです。
ぜひ、広い視野を持って、物事を考えていただきたいと思います。
ここまで読んでいただきありがとうございました。他の記事(特に歴史カードゲームHi!story(ハイスト)の思い)や本家のハイストの方もよろしくお願いします。
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