
現代で幸せに生きる方法を「ユートピア」から考える
「現代社会で幸せに生きるためには?」
この問いに答えようとするとき、私たちはまず「幸せとは何か」を定義しなければなりません。
もし、世界から差別も憎しみも戦争もなくなり、全ての人が健康で平等になったら、それは間違いなく「完全な幸せ」が実現したユートピア(理想郷)でしょう。
しかし、本当にそうでしょうか?
私が高校生の時に授業で読んだ本に似たような描写がありました。完全に管理された世界。色がないゆえに肌の色の違いは存在せず、人種差別なども起こりえません。血縁関係の概念もなく、愛や憎しみ、痛みや死といった概念も存在しません。一見、完全に平和で平等な世界。しかし、そんなある日主人公は管理体制以前の記憶を受け継ぐ役職に就き、社会の在り方に疑問を持ち始める――
("The Giver" より)
といった内容です。
果たしてこのような社会は、本当にユートピアなのでしょうか?
本記事では、かつてユートピアに近づいた社会の事例から、現代の幸せのあり方について考察していきます。
ユートピアとディストピア
ユートピアは、トマス=モアが1516年に発表した著作「ユートピア」内で描かれた架空の国家の名前です。平等や公正、平和や充実した福祉・教育が実現されており、誰もが不自由なく幸せに過ごすことができます。
これは当時のイギリス情勢(貧困問題や社会的不平等、政治的腐敗など)への不満が高まる中で出版され、理想社会の提案を通じて社会情勢への批判と「より良い社会とは何か」という議論を巻き起こしました。
一方で、その対極にあるとされるのがディストピア(暗黒郷)です。しばしば極端な監視社会や人工知能による支配、環境破壊などが進んだ社会として描かれています。
一見真逆に見える両者ですが、その違いは紙一重です。
平等も突き詰めれば管理社会となり、私財の概念や自由も失われてしまいます。学問の興隆も進みすぎてしまえば環境破壊や人工知能の暴走につながってしまうでしょう。
このように、ユートピアも突き詰めれば一瞬でディストピアとなりえてしまうのです。
歴史が語る「偽りの理想郷」
イエズス会の「疑似ユートピア」
理想社会を外部から切り離された環境で実現しようとした試みは、過去に存在します。
17世紀ごろ、イエズス会は実際にパラグアイのグアラニー族に対し、ミッション(伝道村:キリスト教を現地民へ伝える拠点となる村)内で疑似的なユートピアを作る試みを行いました。
当時南米ではポルトガルやスペインによる奴隷狩りが横行していたこともあってその毒牙から逃れられるミッションは評判がよく、多くのグアラニー族が集まり改宗を行いました。ローマ教皇の庇護下におかれ奴隷狩りも立ち入れなくなったことでミッションは一種の小独立国のような様相を見せていました。
ミッションではキャッサバやタバコ、マテ茶などの商品作物に加え、本やギターなどの商品も製造されてヨーロッパに輸出され、多くの富を築きました。
その富は宣教師の指導のもと共有財産として村に蓄えられ、まさに共産主義のような形でミッションの運営がなされました。その繁栄は150年もの間続いたといいます。
ミッションは18世紀後半、イエズス会がヨーロッパ諸国で弾圧されアメリカ大陸から追放されたことで終焉を迎えました。内部崩壊ではなく外部からの圧力だったことを考えるとある種ミッションの目的は達成されたのではないでしょうか。
トマス=モアが描いたユートピアは、このような場合近い形で実現が可能であるといえます。
しかし一方で、この「疑似ユートピア」は「無知」「強引さ」「外部の資本主義」によって成り立っていた部分があると考えます。
ミッション内が共産主義でも繫栄できたのは外部との取引があったからで、すべてがミッション内で完結していたわけではありません。
また、奴隷狩りから逃れるという理由があったとはいえ強制的な改宗はグアラニー族の文化的背景を無視したものになります。倫理的な問題があったと言わざるを得ないでしょう。
そして、グアラニー族にとっては「宣教師に従ったら繫栄した」という成功体験を得た一方で他の繁栄している場所のことは知る由もなく、もしもっと栄えているヨーロッパなどの様子を知ってしまったらミッションでの生活に不満を持つ人も出てきていたかもしれません。
「世界一幸せな国」 ブータンの変化
より現代的な例が、かつて「世界一幸せな国」と呼ばれたブータンです。
2013年頃、ブータン王国は経済的に貧しいにもかかわらず「世界の幸福度ランキング」上位10国に入っていました。「世界一幸せな国」としてブータンの名を聞いたことがある方もいるのではないでしょうか。
しかし現在、ブータンの幸福度ランキングは100位圏外まで落ちてしまっています。
これはインターネットの普及によりブータン国民が他の豊かな国の情報を簡単に手に入れることができるようになってしまった結果、「もしかして自分たちの国って言うほど幸せじゃなかったのかも…?」と思うようになってしまったからだといいます。
この事例は、「無知」の上に築かれた幸せが情報化社会においては極めて脆いことを示しています。
現代社会で「幸せ」に生きるには?
情報があふれる現代において、完璧な単一のユートピアを地球全体に実現するのは不可能です。「幸せ」の定義は人によって全く異なるからです。
例えば「家族との平和な生活」を幸せとする人もいれば、「物質的な豊かさ」を求める人もいます。ここに優劣はありません。
隣の芝生に矢印を向けるな
私たちがブータンの例から学ぶべきは、他者との比較は単に自分の「幸せの定義」を揺るがす行為に他ならない、ということです。
隣の芝生は常に青く見えます。しかし、そこで立ち止まって他者を妬むのではなく、自分自身に矢印を向けること。
現代における真の「幸せ」とは、多様な価値観が共存し、個人が「自分の定義する幸せ」を、他者に邪魔されずに自由に追求できる社会にあるのではないでしょうか。
究極の理想郷とは、画一的な「完全」ではなく、多様な「幸せ」を許容する「流動性」の中にある。
そう考える方が、よほど人間的で希望に満ちているように感じます。
あなたの考える理想郷は?
あなたがもし現代に「住民全員が幸せになれる」ユートピア(理想郷)をつくるなら、それはどのようなものになるでしょうか?
また、完全な管理を行った画一化した世界はユートピアと言えるでしょうか?
ぜひコメントであなたの意見を聞かせてください。
ありがとうございました。

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