
【訪問記】江戸の守りの重要拠点・韮山反射炉
先日ハイストメンバーで旅行に行った際、近くにあった韮山反射炉(にらやまはんしゃろ)を訪問してきました!
「明治日本の産業革命遺産」として世界文化遺産に登録されている韮山反射炉。
「教科書で名前は聞いたことあるけど何をやっていたのかはわからない」
という人がほとんどではないでしょうか。本記事ではその用途から歴史まで、詳しく解説していきます。
韮山反射炉
チケットを買い、屋外に出るとすぐに見える巨大な構造物。韮山反射炉は高さ約15.7m、4炉からなり、1857年に完成しました。
日本で唯一築造当時の形をほぼ残している反射炉で、当時はレンガの外壁を漆喰で固めた白い姿でしたが、それは熱で剝げ、現在は鉄骨で耐震補強をされた姿となっています。
そもそも反射炉とは、銑鉄(不純物を含んだ鉄)を溶かし、より精錬された鉄を作る装置で、17~18世紀ヨーロッパで発達しました。主な用途は大砲の鋳造で、荒い鉄だと火薬の力に耐えきれないためより精練された鉄を作る必要がありました。
精錬のためには、千数百度もの高温が必要となります。下から空気を入れ、内部のドーム状の天井で熱を対流・反射させて一点に熱を集中させ、さらに煙突による気圧差と熱対流の強化により高温を実現しています。
日本においても、1840年のアヘン戦争(清vsイギリス、イギリスが勝利)以降列強諸国への警戒心が高まり、海岸線の防備のため鉄製大砲の生産が急務となりました。*写真は24ポンドカノン、実際に作られていたのは18ポンドカノンなので実物は一回り小さめ
元々は下田に作ろうとしていたこの反射炉ですが、1853年にペリーが来航したことを受け見つかりづらい内陸の韮山の地に建設されることとなったのでした。ここで鋳造された大砲は運搬が容易だった西側・沼津から海路で江戸へ運ばれ、江戸湾の埋め立て地であるいわゆる「お台場」に設置されました。台場はそもそも砲台を設置する場所の意で、幕府に敬意を払って「御」をつけて「お台場」となったとされています。
この台場によってペリーは二度目の来航時江戸にそのまま上陸することはかなわず、横浜まで引き返して上陸することとなりました。
江川英龍
この反射炉の建設や台場の設置を幕府に進言したのが、韮山の代官であった江川太郎左衛門英龍(えがわたろうざえもんひでたつ)です。
当時の日本は内憂外患の時代で、内政では飢饉による一揆や打ちこわし、対外関係では異国船が通商を求めてたびたび来航する大変な状態でした。
そんな中英龍は自ら質素倹約に努め、時には現地に足を運んで民衆の意見を聞き(甲州微行)、さらに困窮した村には長期低金利の貸付金を設定するなど効果的な対策を次々と実施します。さらに、天然痘の予防接種を進め、担当した関東一帯でほぼ死者を出さない快挙を成し遂げています。
そんな英龍を人々は慕い、「世直し江川大明神」と呼びました。
他にも英龍は渡辺崋山ら蘭学者と親交があり、西洋の事情にも明るい人物でした。反射炉や台場設置に見る海防重視の思想はこの付き合いの中から生まれたといいます。一時は崋山らとともに蛮社の獄で罰せられかけましたが、老中・水野忠邦にかばわれて罪を免れその信頼の厚さが一層際立つことっとなりました。
さらに英龍は兵糧として日本で初めてパン食を導入しています。身近な食文化の導入元が英龍にあるのが面白いですね。これも長期保存が可能な兵糧として、国防のことを考えての導入だったようです。
おわりに
いかがだったでしょうか?
韮山反射炉は静岡県伊豆の国市、沼津IC/長泉沼津ICから車で約40分の場所に位置しており、江川邸はそこから車で約5分の位置にあります。
韮山反射炉ガイダンスセンターでは当時をよりよく知ることができる展示や映像を見ることができ、近くの展望台からは晴れていれば富士山と韮山反射炉という2つの世界遺産を同時に見ることができます。(あいにくの曇天で訪問時に富士山は見えず…)
もしこの記事を読んで「面白い!」「興味が出た!」と感じたらぜひ現地を訪問してみてください。
ありがとうございました。

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