
ハイストクイズ#8 後鳥羽上皇編
ハイストクイズ#8
「後鳥羽上皇」
1221年、鎌倉幕府に対し承久の乱を起こしたことから討幕派のイメージが強い後鳥羽上皇。しかし、鎌倉幕府第3代将軍源実朝の時代、後鳥羽上皇は公武協調(朝廷・幕府が手を取り合って日本をまとめる)政策を進めており、かなり融和的であったといえます。
では、この時代融和的な政策が行われていたのはどのような理由からでしょうか?
A:後鳥羽上皇と源実朝に血縁関係があったから
B:趣味の和歌を通じた信頼関係があったから
C:実朝の妻が美人だったから
下で解答・解説を表示します。
解答・解説
正解は、Bの「趣味の和歌を通じた信頼関係があったから」でした!
そもそもの後鳥羽上皇と源実朝の2人の関係の発端は、1203年の比企能員の乱(ひきよしかずのらん)にありました。これは、将軍が源頼朝から頼家に代わって権威の低下した北条家が、頼家の側近である比企氏を誅殺した事件です。
時を同じくして頼家は体調不良で倒れ、北条氏は新しい将軍として実朝を擁立します。後鳥羽上皇もそれを容認し、まだ元服前だった千幡(実朝の幼名)に「実朝」と名を授けます。
さらに北条家が後鳥羽上皇に実朝の結婚相手のあっせんを依頼すると、後鳥羽上皇は坊門信清の娘(=後鳥羽上皇のいとこ)を鎌倉に下向させます。そのため、血縁関係こそないものの後鳥羽上皇と実朝は親戚の間柄であったといえます。
このようにもともと二人の関係は深かったわけですが、和歌を通じてより深まっていくこととなります。
後鳥羽上皇は日本三大和歌集の1つ「新古今和歌集」の編纂を命じたことや、その撰者・藤原定家を見出した、和歌に非常に造詣の深い人物として知られています。
新古今和歌集には実朝の父・源頼朝の和歌も収録されており、それをきっかけに実朝も和歌の世界にのめりこんでいきます。
1213年には自身の歌集である「金槐和歌集」を発表。その最後の一句は
「山はさけ 海はあせなむ 世なりとも 君にふた心 わがあらめやも」
(山が割け、海が干上がってもあなたへの謀反心など起こりえない)
と後鳥羽上皇への忠誠を誓う歌になっています。これに対し後鳥羽上皇も1218年、実朝を左近衛大将(かつての頼朝よりも高い位)に任命するなど両者の蜜月ぶりが見て取れます。
しかし1219年、実朝は頼家の子・公暁により殺害。直径源氏は途絶えることとなってしまいました。
源氏は清和天皇の家系ということや、実朝との個人的な関係もあり公武協調政策をとってきた後鳥羽上皇でしたが、実朝の死によって一転、幕府との関係は悪化していくようになります。
「奥山の おどろが下も 踏み分けて 道ある世ぞと 人に知らせむ」
(奥山の生い茂った草木の下も踏破して、道のある世だと人々に示さなければならない)
という歌にも表れているように、不穏な状況の幕府に対し「私が国を治めればもっといい世の中になる」といった正義感が見て取れます。
結果的に1221年5月、後鳥羽上皇は北条義時追討の院宣を発表。多くの御家人が賛同するだろうと高をくくっていたものの、北条政子の演説もあり大半の御家人が鎌倉幕府側につくことに。
後鳥羽上皇は惨敗を喫し、隠岐へと流されることとなってしまいました。
おわりに
いかがだったでしょうか?
41歳で隠岐に流された後鳥羽上皇は、その後60歳で亡くなるまでの19年間をその地で過ごしたといいます。今も島内には後鳥羽上皇の火葬塚や御陵が残されています。
承久の乱の後、京都には六波羅探題(朝廷の監視を行う組織)が置かれ、朝廷の権威は失墜、幕府の権威はより高まる結果となりました。
また、北条氏の権威も確かなものとなり、執権政治はますます栄えていくのでした。
ありがとうございました。

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