
「クマがかわいそう」は正しいか? 最新のニュースで思考力を鍛えよう【前編】
最近、クマによる被害に関するニュースをよく目にします。
そして、そのクマに対する対応に対して、役所やハンターに対するクレームが殺到しているという話があります。主な主張は以下です。
「かわいそうに。なぜ殺す必要があったのか」
「人間の都合で、動物の命を奪うなんてひどい」
たしかに、クマの命が失われることは、つらく、悲しいことです。その気持ちは、決して間違いではありません。しかし、その一方で、畑を荒らされたり、家のすぐそばまでクマがやってきたりして、毎日怖い思いをしながら暮らしている人々がいるのも、また事実です。
この問題は、一見すると「動物愛護か、人間の安全か」という単純な対立に見えるかもしれません。しかし、その水面下には、都市と地方の断絶、食文化の対立、メディアが作り出す世論、そして「正義」という名の暴走といった、現代社会が抱える、ありとあらゆる複雑な問題が渦巻いています。これは、単なる動物ニュースではなく、私たち自身の価値観が試される、社会の縮図となっています。
この記事の目的は、どちらが正しいかを決めることではありません。そうではなく、このクマの問題という、答えのない難しい問いを「生きた教材」として、物事の本質を深く、そして多角的に考えるための思考力を、親子で一緒に鍛えることを目指したいと思います。
ここで身につける思考法は、学校の勉強、特に国語の読解や社会の資料問題、そして受験の記述問題で問われる「自分の頭で考え、表現する力」に直結します。そして何より、これから変化の激しい社会を生きていく上で、最も大切な武器となるはずです。
【前編】と【後編】の二部作になる予定ですが、ぜひ本記事がみなさんの教養や学力に良い影響をもたらせたらうれしいです。
よろしくお願いいたします。
第1章:まずは「事実」を整理しよう
複雑な問題にぶつかったとき、私たちが最初にすべきこと。それは、感情や意見を一旦横に置いて、「何が事実として起きているのか」を客観的に整理することです。
事実①:クマが人里に現れる回数が増えている
クマが山から下りてきて、私たちが住む町の近くで目撃されることが増えています。これには、いくつかの原因が考えられています。
山の変化:クマの主食であるブナやミズナラといった木の実が不作になる年が増えました。また、かつて人間が手入れをしていた「里山」が放置され、森が荒れてしまったことも、クマが山の中で十分にエサを見つけられない原因の一つです。
人間と自然の境界線の変化:里山は、人間の生活圏と、動物たちが暮らす奥山との間の、大切な「緩衝地帯(クッション)」でした。しかし、林業の衰退などでこの境界線が曖昧になり、クマと人間の遭遇が増えています。
クマの変化:人里のゴミ捨て場や畑が、労せずして高カロリーのエサを手に入れられる「レストラン」であることを学習した、人間を怖がらない新しい世代のクマが生まれています。
事実②:クマの種類によって、危険性は大きく異なる
一口に「クマ」と言っても、日本には主に二種類のクマがいます。
ツキノワグマ:本州と四国に生息。基本的に臆病でおとなしい性格ですが、驚いたり、子育て中の母親は非常に危険です。
ヒグマ:北海道にのみ生息。体が大きく、力も非常に強いです。中には積極的に人を襲う個体もいるため、遭遇した際のリスクはツキノワグマよりも格段に高いとされています。よくニュースになるのは、こちらのヒグマの方です。日本史上最悪のクマ害といわれる、「三毛別羆事件」も、ヒグマだったそうです。
ニュースを見るとき、どちらのクマの話なのかを区別することは、リスクを正しく理解する上で非常に重要です。
事実③:実際に被害が出ている
クマが人里に現れることで、農業被害、物損被害、そして最も悲しいことに、人が襲われて命を落とす人身被害も起きています。これは、地域住民の生活を直接脅かす深刻な問題です。
被害の程度は様々ですが、最近のものもあれば、「三毛別羆事件」のように100年以上前のものもあります。
事実④:いろいろな対策方法がある
住民の安全を守るため、人里に現れて危険だと判断されたクマに対して、行政は対策を講じます。おおざっぱには、以下の3種類があるそうです。
- 追い払う:文字通り、花火やゴム弾などを用いて、クマを追い払います。
- 捕獲:檻や麻酔銃での捕獲から、猟銃による致死的な捕獲方法まで含まれます。
- 監視:他の方法が取れない場合や、差し迫った危険性がない場合に、とりあえず見張ります。
より詳しく知りたい方は、クマ類の出没対応マニュアルという資料を環境省が出しているので、そういったものを参照するとよいでしょう。
事実⑤:対応に対して、多くの抗議が寄せられている
そして、特に致死的な対応が行われると、冒頭のリンクのように、役所などには「かわいそうだ」といった抗議の電話やメールが、全国から数多く寄せられます。
ただ、その内容はただの公務員批判というものも含まれているそうで、本当にクマのことを思ってやっているのかは不明です。
親子で考えてみよう①
以上の事実をもとに、皆さん自身で考えてみましょう。当然、明確な答えのない問題ですから、「正解」は存在しませんが、中学入試の問題ではこういった「答えのない問い」に関して問われることもあります。その場合は、どういった答えを出すかではなく、そう結論付けたプロセスを評価していると考えられます。良いトレーニングになると思います。
- もし自分の家の周りに「クマ出没注意」の看板が立ったら、どんな気持ちになるだろう?
- 君が農家の人だったら、畑を荒らすクマにどう対応してほしいと役所にお願いする?
- クマのニュースについて、あなたのクラスではどんな意見が出そうだろう?
第2章:人間の「命」に対する価値観
さて、ここから考察に入っていきましょう。
「かわいそう」という気持ちは自然なものですが、ここでいくつかの問いを立ててみましょう。
「私たちは、夏に部屋に入ってきた蚊を、ためらうことなく手で叩きます。なぜ、同じ『命』なのに、蚊はよくて、クマはダメなのでしょうか?」
また、
「『クマはかわいそう』と言う人の多くは、スーパーで牛肉や豚肉を買って食べていると考えられます。牛や豚は、かわいそうではないのでしょうか?」
これらの問いは、私たちが無意識のうちに、命に対して価値をつけていることを浮き彫りにしています。
人に害をなすのは、蚊もクマも同じ
まず、大前提として確認しておきたいのは、人に害をなす可能性があるという点では、蚊もクマも同じだということです。
蚊は、デング熱や日本脳炎といった、時には命に関わる病気を媒介します。最も人を殺した生物ともいわれています。一方のクマは、その圧倒的な力で人間に直接的な危害を加えることがあります。どちらも、人間の安全を脅かす存在といってよいでしょう。
しかし、私たちは蚊を叩くことに倫理的なためらいをほとんど感じませんが、クマの駆除には強い抵抗感を覚える人がいます。この感情の違いは、どこから来るのでしょうか。それは、私たちがそれぞれの動物に対して、全く異なる「物語」を当てはめているからです。
「価値観」と「種差別」
私たちは、すべての命を平等には見ていません。クマのように大きく、知能が高く、私たち人間に近い哺乳類には強い共感を抱きます。一方で、昆虫や魚類には同じ感情は湧きにくいものです。
哲学の世界では、このような「人間という種を基準にして、他の種の価値を判断すること」を「種差別」と呼ぶことがあります。これは、根底には、人間が他の種より優れているという考え方があります。
もちろん、人間社会の安全を最優先するのは当然かもしれません。しかし、「蚊とクマの命の重さは本当に違うのか?」といったことを考えてみることは、私たちの倫理観を深く見つめ直す、良いきっかけになります。クマは痛みを感じ、恐怖を覚えますが、蚊にも生きようとする本能があります。この違いをどう考えればいいのか、すぐには答えの出ない、非常に難しい問題です。
「自然界の動物」と「人間のための家畜」
私たちの心の中には、もう一つ大きな境界線があります。それは、「自然界で生きる野生動物」と「人間のために育てられる家畜」との区別です。
クマ(野生動物)
私たちは、クマを無意識のうちに「人間とは別の世界(自然)に住む、独立した存在」と捉えていると考えられます。彼らが私たちの世界に現れるのは「イレギュラーな事件」であり、その姿に私たちは畏敬の念や神秘性を感じます。だからこそ、その命が人間の手で奪われることに、強い抵抗を感じるのです。
牛や豚(家畜)
一方で、牛や豚は、何千年もの歴史の中で、人間の食料となるために品種改良され、管理されてきた存在です。私たちは、スーパーに並ぶパック詰めの肉を見て、それがかつて生きていた牛や豚の体の一部であるという事実を、日常生活の中ではあまり意識しません。彼らの命は、初めから「人間のためのもの」という物語の中に組み込まれているのです。
この無意識の区別が、「野生のクマはかわいそうだが、家畜の牛は食べてもよい」という、一見矛盾した感情を生み出します。
「ヴィーガン」という考え方と、食文化の壁
この「種差別」や「野生と家畜の区別」という考え方をさらに進め、「人間は、動物を食料や衣服、その他の目的のために利用すべきではない」と考える人々がいます。彼らは、ヴィーガンというライフスタイルを選択します。
ここで、よく似た言葉である「ベジタリアン」との違いを少し説明しておきましょう。ベジタリアンは、お肉や魚を食べませんが、卵や牛乳、チーズといった乳製品は食べることがあります。一方、ヴィーガンはより徹底しており、肉や魚はもちろん、卵、乳製品、さらにはハチミツといった、動物から得られるものを一切口にしません。
ヴィーガンの人々から見れば、「クマはかわいそうだが、牛は食べてもよい」という考え方は、大きな矛盾をはらんでいます。彼らは、すべての動物の命を搾取から解放するという、非常に一貫した倫理観を持っています。これはこれで、「じゃあ、植物も命には変わりないがそれはいいのか」という話になってしまうため、難しいところではありますが。
また、さらに複雑なことに、個人の信条としてヴィーガンを実践することは、もちろん自由です。しかし、その考え方を、異なる文化や価値観を持つ他者に強制することがしばしばあります。今回のクマの話も、自分のクマに対する価値観と合わないからクレームを入れているともいえるわけです。そういった、自らの考えの押し付けは、本当に正しいのでしょうか?
さまざまな価値観
世界史に目を向けると、こういった「価値観」は、文化や宗教によって大きく異なることがわかります。
現代のインドでも、ヒンドゥー教徒にとって牛は神聖な存在です。一方で、日本の捕鯨が海外から強い批判を受けるのも、この問題と深く関わっています。欧米の多くの国々では、クジラは知能が高く特別な動物と見なされ、その捕獲は野蛮な行為だと感じられます。しかし、日本では古くからの食文化の一つとして、クジラを大切な海の資源と捉えてきました。そのため、しばしば海外から日本に抗議がくるそうです。また、犬の肉を食べる犬食文化というのがある国がありますが、そういった文化に対しては、日本人は抵抗感がある人が多いのではないでしょうか。
どの文化が絶対的に正しいということはなく、それぞれが持つ歴史や価値観という「価値観」が違うのです。ある意味お互い様といったような感じでしょうか。我々の常識が他者からみたら異常に見えたり、その逆もありうるということです。「絶対に認めてはならない価値観」もあると思いますが、基本的にはお互いがお互いを尊重しあうことが重要であるといえるでしょう。
「安全な場所」からの視点、「危険な場所」からの視点
もう一つ、非常に重要なのが「距離」の問題です。
抗議の電話の多くは、クマが出没した地域とは遠く離れた地域から寄せられるといわれています。安全な場所からテレビの映像として見るクマは「守るべき自然」ですが、家の裏に現れるクマは「自分たちの命を脅かす、現実的な脅威」です。
大切なのは、自分が置かれている「距離」や「立場」によって、同じ一つの出来事が全く違って見えるという事実を理解することです。これは、戦争などにおける話でも同じことで、無関係な国の人が、「さっさと降伏すればいいのに」といったことをいうことがありますが、当事者にとってはそんな簡単なことではないということもあります。
遠くにいるからこそ持てる「理想論」と、すぐそばにいるからこそ感じる「現実論」。この二つの視点の間に、深い溝があるのです。
親子で考えてみよう②
以上の考察をもとに、皆さん自身で考えてみましょう。先ほどと同様に、明確な答えのない問題ですから、「正解」は存在しませんが、こちらも良いトレーニングになると思います。
- あなたは、クマと牛と蚊の命の重さは、同じだと思う?違うと思う?その理由を説明してみよう。
- あなたがクマの出没地域に住む町長さんだったら、「殺さないで」という電話にどう答える?
- 日本の捕鯨を批判する海外の人に、日本の食文化をどう説明すれば、理解してもらえるだろう?
おわりに
とりあえず、ここまでで【前編】は終わりとします。
【後編】では、大義名分とはなにか、どうすれば共生ができるのかについて考えてみたいと思います。
ここまで読んでいただきありがとうございました。他の記事(特に歴史カードゲームHi!story(ハイスト)の思い)や本家のハイストの方もよろしくお願いします。
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