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「クマがかわいそう」は正しいか? 最新のニュースで思考力を鍛えよう【後編】

「クマがかわいそう」は正しいか? 最新のニュースで思考力を鍛えよう【後編】

投稿日: 2025年09月01日
最終更新日: 2025年09月01日
RopiRopi

はじめに:前編からの続き

【前編】では、クマ出没という一つのニュースを入り口に、まず事実を冷静に整理し、その裏側で、私たちの心の中にある「命の重さ」や「動物との距離感」といった、複雑な価値観がどのように働いているかを見てきました。私たちは無意識のうちに、生き物の種類や、自分との関わり方によって、命の価値を判断していることを理解していただけたと思います。

今回の【後編】では、議論をさらに一歩進めます。

なぜ、多くの人が抱く「かわいそう」という自然な気持ちが、時に他人を激しく攻撃するクレームに変わってしまうのでしょうか。【後編】では、その危うい心理を、歴史を紐解きながら読み解いていきます。そして最後に、この悲しい対立を乗り越え、人間とクマ、さらには異なる考えを持つ人間同士が、共に生きていくための方法について探っていきます。

第3章: 歴史が警告する「大義名分」の罠

クマの対応に対して、強い言葉で抗議する人々。その声の背景には、何があるのでしょうか。

「自分は正しい」という思い込みの危うさ

人間は、「自分は、何かとても正しいこと(大義名分)のために行動しているんだ」と考えたとき、大きな力を発揮することができます。しかし、その一方で、その「正しさ」を信じ込むあまり、時に非常に攻撃的になったり、自分と違う意見を持つ人の声に全く耳を貸なくなってしまったりすることがあるのです。

「か弱い動物の命を守る」というのは、誰もが正面から反対しにくい、とても立派で分かりやすい「正義」です。しかし、その正義の旗を高く振りかざすあまり、「自分と違う意見を持つ人間は、全員、心が冷たくて思いやりのない悪者だ」と決めつけてしまったら、どうなるでしょうか。クマの被害に苦む地域住民の事情や、対応に当たる人々の苦悩を理解しようとせず、ただ自分の正しさを一方的に押し付けるだけの、それはもはや対話ではなく、ただの非難になってしまいます。

これは、クマの問題に限った話ではありません。人類の歴史を振り返れば、「正義」の名の下に、数えきれないほどの悲しい争いや悲劇が繰り返されてきました。

魔女狩り

例えば、中世ヨーロッパで行われた「魔女狩り」があります。当時は、「キリスト教の教えを守る」という絶対的な正義の名の下に、科学的な根拠もなしに、多くの無実の人々が「悪魔と契約した魔女だ」として告発され、火あぶりの刑などで惨殺されました。告発した人々も、裁判官も、それを実行した人々も、自分たちが「神様のための、正しいこと」をしていると固く信じていたのです。

尊王攘夷

また、今から約150年前の日本、江戸時代の終わりには、「尊王攘夷」という考え方が広まりました。「天皇を敬い、日本に入ってくる外国を打ち払うことこそが正義だ」と信じた武士たちが、開国して外国と貿易すべきだと考えた人々を、「天誅(てんちゅう)!」と叫んで次々と暗殺していきました。安政の大獄はその代表例で、吉田松陰らが幕府への反乱分子として死罪となりました。彼らもまた、自分たちの行為が日本を救うと信じて疑わなかったのです。結果的に、日本を救ったとも、危機に陥れたともいえる尊王攘夷ですから、正義ではなかった面もあったということです。

自分の中に「正義」の信念を持つことは、とても大切です。しかし、それと同時に、「もしかしたら自分は間違っているかもしれない」、「相手にも、事情や守りたい正義があるのかもしれない」と想像することが重要であるといえるでしょう。そして、自分の正義を疑いの目で見てみること、この冷静な視点を持つことが多様な人々が暮らす社会で、平和に共に生きていく上で非常に重要であるといえます。『鬼滅の刃』などでも、「事情のある鬼」は何度も登場しています。法律的にも、「情状酌量」という概念があります。これは、「刑事裁判において、裁判官が被告人の事情や背景を考慮して刑罰を軽くすること」であり、ある意味で、正義はいろいろあるということを言っているといっていいでしょう。例えば、復讐は法的には認められませんが、同情する人が多くでるような事例はあります。

「他人事」だから言える理想論

さらに、問題を複雑にしているのが、「一部の過激な声が、まるで全体の意見であるかのように大きく見えてしまう」というメディアの構造です。

例えば、ニュースで「抗議の電話が数百件殺到!」と聞くと、私たちは「そんなにたくさんの人が反対しているのか。結構多いのだな」と思ってしまうと思います。しかし、日本の人口は約1億2千万人ほどです。数百件というのは、全体から見れば、1%にすら満たない極めて少数派の意見です。「多数派が必ず正しい」とは当然言えませんが、だからといって少数派の意見が正しいとも限りません。もちろん、その中には動物福祉を真剣に憂う、心からの声もたくさん含まれていると思います。

しかし残念ながら、中には日頃の不満やストレスのはけ口として、公的な組織を攻撃する「きっかけ」としてクマ問題を利用しているケースも存在します。すなわち、「理由は何でもよく、とにかく何かを叩ければいいと考えている層」が存在しているということです。

例えば、クマの話ではないですが、バスの運転手さんが、休憩中にカレーを食べていただけでクレームが入ったこともあったそうです。つまり、多くの人がまったく問題ないと考えるであろうことに対しても、文句を言う層は一定数存在するということです。ストレスがたまることはしょうがないですが、その発散をクレームを行うことで実行する層がいるということです。

そして、クレームの多くに共通しているのは、結局のところ、「他人事」であることが多いということです。

自分の生活が直接脅かされているわけではない。だからこそ、現実の複雑さや、地域住民の恐怖を想像することなく、「殺すなんてかわいそう」という、シンプルで分かりやすいきれいごとや理想論を言うことができるのです。もし、自分の子どもがクマに襲われるかもしれないという状況に置かれたなら、はたして同じことが言えるでしょうか?

ではどうすればいいのか

インターネットやテレビは、こうした過激で分かりやすい意見を大きく取り上げがちです。その結果、私たちは「世の中のほとんどの人が、駆除に猛反対している」かのような錯覚に陥ってしまうことがあります。では、このような状況に、私たちはどう向き合えばいいのでしょうか。

まず大切なのは、すべての人の願いを同時に、完全にかなえることは不可能だと理解することです。意見が対立した場合、普通はお互いが少しずつ譲り合う「譲歩」によって、着地点を探します。しかし、中には絶対に自分の意見を曲げない人もいます。

たとえば、AさんからEさんまでの5人組で、100万円のもうけを分けるとします。単純に平等に分けるなら、一人20万円ずつです。しかし、もし客観的に見て、Aさんが一番真面目に働き、逆にEさんは少し怠けていたとしたらどうでしょうか。「頑張った人が多くもらうべきだ」と考えて、Aさんに30万円、BさんからDさんには20万円、そしてEさんには10万円、という分け方にする方が、多くの人は「公平だ」と納得できるかもしれません。

ところが、もしEさんが「自分が一番がんばったから(実際はがんばっていない)、半分の50万円以上もらえないなら、この決定には絶対に従わない!」と、極端な主張を始めたらどうなるでしょうか。みんなで話し合って決めた公平なルールも、たった一人の強硬な反対によって、めちゃくちゃになってしまうかもしれません。

クマの問題に限らないですが、現実社会でもこういったことは頻繁に起きており、「多くの人が理解できないクレームを言うクレーマー」の方々は、こういうことをしてきます。少数派の意見に耳を傾け、配慮することは非常に重要です。しかし、その意見が、地域住民の安全や生活といった、大多数の人の幸福を大きく損なう可能性のある、あまりにも極端な要求だった場合、それにそのまま従うことが、社会全体にとって本当に良いことなのかは、慎重に考えなければなりません。

すべての声に耳を傾けることは大切です。しかし、一部の「声の大きい」意見が、あたかも社会全体の意見であるかのように錯覚してはいけません。建設的な批判には真摯に対応しつつも、大多数の人々の幸福や安全を損なうような、一部の無理のある要求にまで過剰に応える必要はないのです。最終的には、社会全体のバランスを考えた、総合的な判断が求められます。先ほどの分配の例では、AさんからDさんまでは満足している一方でEさんだけが不満なのと、Eさんだけが満足で、それ以外の人が不満なのだとはたしてどちらがよいでしょうか。

親子で考えてみよう③

  • あなたが今まで、クラスの友達や家族に対して「これは絶対に正しい!君が間違っている!」と強く主張したけれど、後から「ああ、相手にも事情があったんだな。言い過ぎちゃったな」と反省した経験はあるだろうか?

  • インターネットの動画やSNSの投稿で、たくさんの「いいね」や「高評価」をもらっている意見は、それだけで「正しい意見」だと言えるだろうか?

  • クラスで何かを決めるとき、「声が大きくて、いつも自分の意見を強く言う少数派」の意見と、「普段はあまり発言しないけれど、実は多くの人が心の中で思っている多数派」の意見、リーダーとしてどちらをより大切にすべきだろうか?

第4章:「異文化共生」とは

さて、この記事の締めくくりとして、この「人間とクマの共生」という問題を、さらに大きな視点から捉え直してみたいと思います。実は、このテーマは、現代社会が直面しているもう一つの、非常に重要で大きな課題である、「人間同士の異文化共生」と、驚くほど多くの点で重なり合っているといえます。

グローバル化が進み、今の日本には、多くの外国人労働者や移民、留学生、観光客が暮らしており、私たちも彼らと共に生活するのが当たり前の時代になりました。異なる言語を話し、異なる神様を信じ、異なる生活習慣を持つ人々が、同じ社会で「隣人」として生きていくということが、一般的になってきています。これは、社会をより豊かで多様な、面白いものにする大きな可能性を秘めている一方で、様々な誤解や価値観の違いから、摩擦や対立を生む原因ともなっています。

「クマ問題」と「異文化共生」、一見全く異なる問題に見えますが、その根底には、実は非常によく似た共通の構造が存在しています。

移民政策の光と影

この問題を考えるとき、先に多くの移民を受け入れてきたヨーロッパの国々の経験は、私たちにとって大きな教訓となります。フランスやドイツ、スウェーデンといった国々は、労働力不足を補うため、あるいは人道的な理由から、何十年も前から多くの移民を受け入れてきました。

移民のメリット

その「光」の部分、つまりメリットはたくさんあります。

例えば、ドイツではトルコからの移民が安価で美味しいケバブを広め、今では国民食の一つになっています。イギリスではインド系の移民がもたらしたカレーが、フランスでは北アフリカのクスクス料理が食文化を豊かにしました。音楽の世界では、様々な国のルーツを持つ人々が新しい音楽を生み出し、芸術やファッションの世界でも、移民たちがもたらした斬新なアイデアが新しいトレンドを生み出してきました。社会の活気という点では、移民たちが開いたお店で街が賑やかになったり、彼らが担い手となって、もとから住む人々が敬遠しがちな介護や建設、清掃といった仕事が支えられたりもしました。

移民のデメリット

しかし、その一方で、深刻な「影」、つまり問題点も明らかになっていきました。

例えば、フランスのパリ郊外には「バンリュー」と呼ばれる、北アフリカ系の移民が多く住む地域があり、もとから住むフランス人との間に見えない壁ができてしまいました。そこでは、失業率の高さや貧困、そして日常的な差別といった問題が長年積み重なっていました。そうした社会への不満や絶望感が爆発したのが、2005年にフランス全土で起きた大規模な暴動です。この暴動は、警察官から逃げていた移民系の少年2人が感電死したことをきっかけに始まりましたが、その根本には、移民たちが抱える深刻な社会問題があったのです。

また、宗教的な習慣を巡る対立も絶えません。フランスでは、イスラム教徒の女性が公共の場で顔を覆うスカーフを着用することが法律で禁止され(ブルカ・ニカブ禁止法)、大きな議論を呼びました。これは、「信教の自由」を尊重すべきだという意見と、「公共の場では誰もが平等であるべきで、宗教的な主張は控えるべきだ」というフランスの伝統的な価値観が正面から衝突した、また別の形の難しい問題です。

こういった経験から、多くの国で移民政策は「理想通りにはいかない、非常に難しい問題である」と認識されるようになっています。すなわち、メリットだけがあるわけではない、デメリットも考えなくてはならないものということです。

日本の特殊性と、これから向き合う困難

こうした海外の事例を見ると、日本がこれから向き合う異文化共生は、さらに難しい道のりになるかもしれません。なぜなら、日本は海に囲まれた島国であり、歴史的に見ても、ほとんどの時代をほぼ単一の民族で過ごしてきた、世界でも珍しい国だからです。

例えば、日本では、言葉にしなくても相手の気持ちを察する「空気を読む」という独特のコミュニケーションが重視されます。しかし、これは外国人にとっては非常に理解しにくいものです。また、「みんなと一緒」であることが良しとされる文化の中で、見た目や考え方が違う人がいると、無意識のうちに仲間外れにしてしまう傾向もあります。海外の国々でさえ苦労しているのですから、この特殊な文化を持つ日本が、移民とうまくやっていくことは非常に難しいと考えられます。

それでも共生を目指す理由

では、それだけ難しいのであれば、外国の人々を受け入れなければ良いのでしょうか?話はそう単純ではありません。なぜなら、これからの日本にとって、異文化共生は避けて通れない道であり、同時に、大きなメリットが見込めることも事実であるからです。

  • 社会の活力を保つため:少子高齢化が進む日本では、このままでは働き手がどんどん減っていきます。外国の人々に仲間として社会を支えてもらうことは、私たちが今の便利な生活を維持していくために不可欠です。

  • 新しいアイデアが生まれる:全員が同じ考え方しかできない集団は、新しいものを生み出す力が弱くなります。自分たちとは全く違う視点や発想、バックグラウンドを持つ人が加わることで、これまで誰も思いつかなかったようなイノベーションが起きたり、難しい問題を解決するヒントが見つかったりします。

  • 文化が豊かになる:世界中の本場の料理が近所で食べられたり、様々な国の音楽や映画に気軽に触れられたり、新しいスポーツを知ったりすることができます。現在、万博が開催されていますが、訪れた人は他国の文化などを知ることができ、結構楽しめたのではないでしょうか。

このように、デメリットもたくさんありますが、メリットもたくさんあるのだということは認識しておくべきだと思います。

尊重と「譲れない一線」

クマとの共存のために、ゴミの管理やゾーニング(棲み分け)といったルールが必要なように、異文化共生においても、粘り強い対話を通じて、お互いが受け入れ可能なルールを社会の中で構築していくプロセスが不可欠です。互いの文化や価値観の違いを尊重することは、その第一歩です。しかし、それは「どんな文化でも、どんな習慣でも、すべてをそのまま受け入れなければならない」ということではありません。

どの社会にも、その社会が平和で安全に機能するための、基本的なルールや土台となる価値観があります。これが、いわば「絶対に譲れない一線」です。

例えば、海外では家の中で靴を履く文化がある国があります。一方、日本では、家は清潔でリラックスする場所という考え方が強く、衛生面からも靴を脱ぐのが当たり前です。これを「文化の違いだから」と日本でそのまま持ち込むと、多くの人が不快に感じたり、家の床が傷ついたりして、トラブルの原因になります。また、亡くなった方の埋葬方法も国や宗教によって様々ですが、土地が限られ、公衆衛生が重視される日本では、法律で決められた場所以外に土葬するわけにはいきません。

異文化共生とは、相手の文化を一方的に受け入れることではありません。相手の文化の背景を学び、尊重する姿勢を持ちながらも、自分たちが暮らす社会の基本的なルールや法律、そして多くの人が大切にしている価値観は、同じ社会の一員として守ってもらうよう、きちんと伝え、お願いすることでもあるのです。したがって、後から入ってきた方が、「自分たちに合わせろ!配慮しろ!」と強要するのも、受け入れる側が「ぜんぶダメ!帰れ!」とまったく受け入れないことも問題であると思います。うまく折り合いをつけて、双方にメリットのある形になればと思います。

親子で考えてみよう④

  • ヨーロッパの国々が移民との間で経験した難しい問題を知った上で、日本がこれから外国の人々と仲良く暮らしていくために、一番大切だと思うことは何だろう?

  • 日本で生活する外国の人に、「これだけは日本の大切なルール(あるいは習慣)だから守ってほしい」とお願いしたいことは何だろう? 逆に、外国の文化で「これは日本にも取り入れたら、もっと社会が良くなりそう」と思うことはあるだろうか?

  • もし、あなたのクラスに、日本語がまだあまり上手ではない外国人の転校生が来たとします。その子と仲良くとなり、クラスみんながその子を温かく迎え入れ、楽しく過ごすために、あなたならどんなことをするだろうか?

おわりに

クマの問題という、一つのニュースを入り口に、私たちは「命の価値」や「正義」、そして「他者との共生」という、非常に深く、そして私たちの生きる社会の根幹に関わる、普遍的なテーマについて考えてきました。

これらの問いに、たった一つの、誰もが納得する「正解」はありません。そして、それでいいのです。おそらく、最も大切なのは、すぐに白か黒かの答えを出そうと焦ることではありません。そうではなく、クマの被害に怯える人の立場、遠くから動物の命を思う人の立場、対応に苦慮する行政の人の立場など、様々な立場の人々の視点から物事を多角的に考え、自分なりの意見を組み立て、自分とは違う他者の意見に謙虚に耳を傾ける、その思考と対話のプロセスそのものに、大きな価値があると考えられます。

ぜひご家庭で、「あなたはどう思う?」と話し合ってみてください。この記事が、あらたなる学びの第一歩となってくれたら、非常にうれしく思います。

ここまで読んでいただきありがとうございました。他の記事(特に歴史カードゲームHi!story(ハイスト)の思い)や、途中のニュートンのカードが登場する本家のハイストの方もよろしくお願いいたします。

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この記事を書いた人

Ropi
Ropi

「放課後のハイスト」ライター

東京大学で量子デバイスの研究をしています。
『機動戦士Gundam GQuuuuuuX -Beginning-』最終的に7回観ました。文句なしの神映画でした。
本編も最後まで観ましたが、非常に良かったと思います(特にマチュ、シャア、シャリア)。

よろしくお願いします。

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