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もし、石田三成が天下を取っていたら

もし、石田三成が天下を取っていたら

投稿日: 2024年12月07日
最終更新日: 2024年12月07日
源さん源さん

第8シリーズとして10月に発売された関ヶ原の戦いデッキで徳川家康と共に代表カードになっている石田三成。
同時発売の関ヶ原の解説冊子にも書いてある通り、史実では関ヶ原の戦いで敗北し、徳川家康に天下を譲ることになってしまったが、もし、彼が天下を取ったらどうなるか、どうするつもりだったのか、というのを今回は考えていこうと思う。

石田三成の素性について

まずは石田三成本人の素性から。彼は三杯の茶(石田三成が幼少の時に後の主君となる豊臣秀吉と出会った時の逸話のこと)で分かるように、近江国(現在の滋賀県)の北側、長浜周辺の生まれだった。三杯の茶などから気に入られて秀吉の近習の一人になると、秀吉の居城だった長浜城で他の同期の少年たち(いわゆる秀吉子飼いの将たち。加藤清正、福島正則、大谷吉継など)と共に育てられた。そして三成は、秀吉が織田信長や明智光秀に代わって天下人となると、近江国の水口(現在の甲賀市)、次いで佐和山(現在の彦根市)に所領を持たされる。そしてそのまま関ヶ原の戦いを迎え、ご存知の通り処刑されている。

清正、正則、吉継らと違って、三成は生まれてから死ぬまで、故郷の近江国と共にあった。このあたりに秀吉からの信頼と期待が表れているような気がするし、事実、文治派の筆頭として扱われていた。

故郷の近江国について

この近江国、当時の日本の中心地が滋賀県の隣の京都にあったことを考えれば当然かもしれないが、経済的にかなり潤っていた地域だった。それこそ、あの経済を熟知しきった織田信長が本拠地を移した(岐阜城から安土城へ)ぐらいには。

戦国時代、近江国は他にも潤っていた理由がある。たとえば戦国時代後期の主力武器となった火縄銃。近江国には全国を代表する鍛冶村である国友村があった。それに、近江国は応仁の乱以降、かつての近江守護佐々木氏の末裔である京極氏と六角氏の争いに端を発し、そこに京極氏の家臣だった浅井氏が参戦し、しまいには織田氏が参入してくる混戦状態(姉川の戦いなど)だった。
混戦になるとどうなるか、田畑は荒れ果て、民は困窮すると思うかもしれないが、それは違う。あの負け戦として名高い太平洋戦争ですら追い込まれる1944年までは、軍事費を賄えるほどの需給があったのだ。戦国時代の合戦などは稼ぎ時だったのである。たとえば先に挙げた鍛冶村では鉄砲だけでなく、製造技術の素地になった刀剣や甲冑の製造にも長けていたから、これらを作って各大名に売り込めば、かなりの収益になる。戦争し続けてくれれば、合戦で武器や防具は壊れたり傷んだりして新しいものを欲するために需要は減らないから、領民はこぞって武器を作って売ろうとする。
合戦があれば領民が作っている食糧(米)も戦場で頑張って腹を空かせる男たちの兵糧としてだけでなく、軍事費に充てる貨幣代わりにもなるから、領主の指示に従って作れば作るほど、これまた儲かる。食糧を集める領主や食糧の流通を担う商人も潤う。

三成の身近な土地にあった近江国は、このように戦争することで非常に儲かっていたのである。官僚としては日本史でも有数の有能さを持つ三成だ。こうした近江国の状況を目の当たりにして、気づかないはずがない。

そして全国へ

そして、三成は秀吉に従って太閤検地などを行うことでさらに気づく。戦争で潤っているのは近江国だけでなく日本全国にも当てはまるのだと。

だが、その主君の秀吉自身が全国を統一し、勝手な戦争を禁じる惣無事令を出すと状況は変わってくる。惣無事令を出してしばらくは戦争は続いていたが、1590年に小田原征伐が終わると、北海道や離島を除いた全ての勢力が秀吉に臣従する態勢が整ったのである。これは教科書的にいえば、戦争がなくなったよ、平和になって嬉しいねという状況ではある。だが、これは民にとって手放しに喜べることではなかった。これまでずっと戦争をしていてくれたおかげで、たくさん供給しても問題なかった武器や食糧はどうすればいいのか。一気に売れなくなってしまう。
それに民を支配する立場の武士も困ってしまう。これまで戦功を挙げれば敵の土地を自分の土地としてもらえるから、それを生きがいに頑張ってきたのに、全部秀吉に帰順してしまえば、敵の土地もなければ、戦功を挙げることもできなくなってしまう。

この後、1593年から始まる文禄・慶長の役で、朝鮮総奉行に任じられる三成。朝鮮に攻め込んだ理由は諸説あるが、三成としては、たとえ勝つことができず恩賞にする土地がなくても、戦功を挙げられる場所を用意し、武器・食糧・人手を消費できる場所ができると、考えたかもしれないと私は思う。彼は文治派の吏僚だから戦功と土地については、あまり考えなくてよかった。

結局、文禄・慶長の役は土地を獲得することができなかったため、前線で戦い戦功を挙げることで恩賞を得る生き方をしてきた武断派の武将たちに不満を溜め込む結果になってしまった。後の関ヶ原の戦いを考えると、武功で生きてこなかった三成にとって、この不満は想像以上のものだったのではないかと思わざるを得ない。

三成の天下構想?

ここで、最初においた、石田三成が天下を取っていたら、どうする気だったのかを考えていこうと思う。
関ヶ原の戦いで、戦国時代を通しての戦争経済や海外貿易を基盤としていた豊臣政権を守ることを大義名分として掲げていた三成は、そのまま関ヶ原で勝っていたら、おおよそ豊臣政権の方針のまま運営していくつもりだったと思う。

今まで述べてきた通り、三成が戦争で潤ってきた近江国を見て、文禄・慶長の役で日本に征服する土地も戦も残っていないが、海外に出向けば武器・食糧・人手を消費できること、そして武士も民もそういった戦争経済から抜け出せていないことを考えた時、三成は何とかして海外のどこか――再び朝鮮かもしれないし、あるいは琉球、蝦夷、東南アジアかもしれない――に戦争を仕掛けにいこうとする線はかなりあり得ると思う。
それに朝鮮に関しては、亡き秀吉が遺した悲願でもある。

これは成功したかもしれないし再び失敗したかもしれない。有史以来戦争を繰り返してきた人間にとって、戦争をし続けることは、何も悪いことではない。戦争で民も支配層も儲かるなんてことは今でも続いている。
けれど、ここで戦争から逃れられなかったら、きっとCool Japanの大部分を占める大文化時代の江戸がなく、我々は味気ない文化を持つ国になっていたかもしれない。

時には休憩し、絵を描き、本を書き、よく話し、何かに没頭して研究することも大切である。

三成もここまで分かりきっていて、江戸時代とよく似た方向性に持っていく気だったかもしれない。こういう考察をするのも歴史の醍醐味である。


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この記事を書いた人

源さん
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どうも、源だ。ハイストでは、主に歴史系とイラスト生成系を担当しておるぞ。よろしくお頼み申す。

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