
ハイスト謎#10 下剋上の男?
ハイスト謎#10
それでは本日の1問です。
難易度:☆☆☆☆自力で解きたい方はスクロールをしないようお願いします。下で解答・解説を表示します。
どうしても行き詰まってしまった場合は教科書や資料集、ネットなどに頼っても大丈夫です。
ヒント1:物の種類と数に注目してください。
ヒント2:画像はそれぞれある人物の名前を表しています。
解答・解説
この謎では、画像の内容と数に注目することが重要なポイントでした。
Aでは茶が1つ、Bでは葉が1つ、Cでは道が3つあることから、このようにそれぞれ小林一茶、樋口一葉、斎藤道三について表した画像だとわかります。
ここで、「ママ」と言えないものはどれか、という問いについてですが、斎藤道三の別名といえば美濃の「マムシ」であり、「マ」を無視する=言えない、と考えることができます。よって、答えは「C」の画像となります。
斎藤道三が「マムシ」と呼ばれたのは、主君の謀殺、乗っ取りといった手法を用いて低い身分から下剋上を達成し戦国大名にまでのぼり詰めた様が、マムシが毒をもって獲物を弱らせ丸呑みする様子と重なったからだとされています。
従来、道三は一代で出家・還俗、油売り商人の身から美濃国小守護代・長井長弘に仕え、守護である土岐氏の地位争いの中頭角を現し、その後主君を追放して国盗りを達成したといわれていました。しかし、近年の研究では頭角を現すまでの出来事は道三の父、新左衛門尉の出来事だとされていて、実質親子2代での国盗りだったとされています。
土岐頼武と土岐頼芸の守護争いの中、本来の主家である頼武方として参戦した新左衛門尉。戦力を伸ばすも、本人は1533年に亡くなります。
一方、1494年に生まれた道三は頼芸方として参戦し活躍します。頼芸は家督争いに敗れますが、策を講じて頼武を越前国に追放し、さらに頼武と内通したとして当時実権を握っていた長井長弘を殺害します。
1544年には頼武の子・土岐次郎が織田氏や朝倉氏とともに美濃に侵攻しますがこれを撃退、頼芸は美濃守護となります。その後再び織田信秀が美濃へ攻め込むもここでは和睦が成立し、斎藤道三の娘である濃姫が信秀の嫡子である信長に嫁ぐことになりました。これにより道三は更なる後ろ盾を得たといえます。
なお、ほどなくして頼芸も道三によって追放され、美濃国は道三の手中に収まることとなりました。2代に渡る「国盗り」の完了です。
朝廷からも美濃国主として黙認されるようになった道三。ここからは晩年へと入っていきます。
1554年頃には家督を息子の斎藤義龍に譲って隠居を開始します。しかし勢力争いの中義龍と道三の軍が衝突すると、数で劣る道三軍は敗れ道三も首を取られる結果となってしまいました。
数々の策や裏切りにより美濃国主まで上り詰めた斎藤道三でしたが、その死は息子の反発によるものという悲惨な結末でした。
おわりに
いかがだったでしょうか?
斎藤道三の生涯についてはかなり諸説あるのですが、一説として楽しんでいただければ幸いです。
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