
ハイスト謎#16 窮地に才あり?
ハイスト謎#16
それでは本日の1問です。
難易度:☆☆☆☆自力で解きたい方はスクロールをしないようお願いします。下でヒント、さらに下で解答・解説を表示します。
どうしても行き詰まってしまった場合は教科書や資料集、ネットなどに頼っても大丈夫です。
ヒント:「切っ先」は「ある」、「鞘」は「ない」に入ります。
解答・解説
今回、「ある」側には、「こうむ」「ひゃっか」「せいか」「チェーン」とこのように店の種類の名前が含まれていました。
この法則に従って「光琳」を見ると、「こうり」(小売店)が含まれているため「ある」側に属することが分かります。
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尾形光琳は、江戸時代中期を代表する芸術家です。父である尾形宗謙の代に徳川家も顧客にいた呉服商である雁金屋を継いだため、一家は非常に裕福な状態でした。
宗謙が死去し長男の藤三郎(光琳は次男)が継ぐと、光琳は相続した遺産を遊びに使い込み借金にも手を出し始めます。そんな中、収入を補う最後の手段として光琳は自らの絵を売り始めたのです。
当時光琳は狩野派の山本素軒に師事していました。しかし最も影響を受けたのは「風神雷神図屏風」で知られる俵屋宗達で、その自由闊達な画風を大いに参考にしたとされています。
宗達自体は光琳より100年ほど前の画家ですが、このように光琳の画風のもととなったことから宗達はそのプロデューサー・本阿弥光悦とともに「琳派の祖」と称されています。
琳派の特徴としては、背景に金銀箔を用いたり、赤、青、緑など鮮烈な色を使っているというものがあり、デザイン性に優れています。その色の鮮やかさに関してはこちらの記事でも考察しているのでぜひご覧ください。
また、特に光琳の画風として草木や花、雲、鳥といった自然の要素をデフォルメさせて様式化するという特徴があり、このようなものは「光琳模様」と呼ばれています。
代表作としては燕子花図屏風や紅白梅図屏風などが有名ですが、光琳は様々な媒体で作品を残しています。扇子や硯箱にはじまり、弟で陶芸家の乾山の器に絵付けをしたり、実家が呉服商だったことから小袖や帯の絵付けも手掛けたりと多方面に活躍しました。
光琳は5年ほど江戸を拠点としたのちに京都に戻り、晩年はそこに新居を立てて制作を行ったとされています。当時の屋敷は自筆の図面などをもとに現在「光琳屋敷」として静岡県のMOA美術館にて復元されています。興味のある方はぜひ足を運んでみてください。
おわりに
いかがだったでしょうか?
画家としてのスタートは遅めながらも、その画風と技術で後世まで語り継がれる存在となった尾形光琳。
しかしながら本人は画家を家業とは見なしていなかったらしく、息子への遺言書にて「相究タル家業モ之レ無ク」と述べています。結果として息子・寿一郎は他家に養子に出されることとなりました。
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