
教科書ちゃんと読めてますか? ~内容を理解するとはどういうことか~
最近、ふと思い立って、昔中学受験の勉強をしていたころの教材を読み返してみたのですが、解説がまったく解説になっていませんでした。
引用するのが難しいので、具体的なことを書くことはできませんが、意訳すると、
「これは暗記です」
と書かれていました。
これで当時の僕はちゃんと納得していたのかなあと思ったのですが、それと同時に、「理解って何だろう」と思いました。
一般に、勉強は理解することだと考えられていると思います。
一方、ちゃんと理解するような教育が行われているか、生徒は理解することに勤めるような勉強をしているのかという問題があると思います。
そこで、本記事では、「教科書をちゃんと読む」とはどういうことか、すなわち「理解するとは何か」、「そのためにどのような姿勢が必要か」について、暗記云々という垣根をさらに超えて、僕なりの考えを述べていきたいと思います。
よろしくお願いいたします。
不適切な解説
最初に、もう少し解説に関する補足と、不適切な物の例を提示しておきたいと思います。
一見正しそうだけど…?
例えば、教科書に「昆虫は頭、むね、はらのつの部分に分かれている」と書かれていたとしましょう。実際、理科や生物の教科書にはこのようなことが書かれていると思います。しかし、この説明には論理的に実はちょっと問題があります。少し考えてみてみてください。
何か気づいたでしょうか?
実は…
実は、そもそも昆虫の定義として、頭、むね、はらのつの部分を持っているものであると定義して(決めて)います。すなわち、先ほどの説明は一見正しいようで、実は論理的に自明であり、本質的な説明になっていないという問題を含んでいます。いわゆる、循環論法みたいなものともいえるでしょうか。
このように、説明になっているようでなっていない不適切な説明というものは、意外とそこらへんに存在します。このような説明となっている理由として考えられることは、
- 分かりやすさを優先した
- 書いている人が論理的に考えられていない
のどちらかであるような気がします。
前者に関しては、「頭、むね、はらのつの部分を持っていて、(ほかの条件)があるものを昆虫という(定義する)」という説明だと、やはりわかりづらい面があるのは事実です。そのため、逆にイメージしやすい昆虫を先に持ってきて、「頭、むね、はらの3つに分かれています」と説明したくなる気持ちはわかります。昆虫としてわかりやすい例はカブトムシ、バッタ、トンボなどがあると思いますが、特に子どもに説明する場面では、「カブトムシって、どんな体のつくりかな?」といった風に聞いてあげた方が受け入れやすいのは事実です。
後者に関しては、単純に「昆虫は頭、むね、はらのつの部分に分かれている」という説明が一見問題なさそうに見えるため、特に疑問に思うこともなく、そのように説明している可能性もあります。より概念として大きいものと、それを構成している細かいものの関係は結構ややこしいのです。例えば、「生物は細胞が集まってできている」のか、「細胞が集まってできているのが生物」なのかは、結構あやしいところではあります。皆さんはどう思われるでしょうか?
「教科書をちゃんと読む」とは
そういうわけで、教科書に書かれていることに対して、「これは本当にそうなのだろうか」、「論理的に問題がないだろうか」、「どういう論理で書いてあるのか、それともそういう風に定義しているのか」と吟味してみることは良い勉強になると思います。
実際、教科書であっても誤植があることはありますし(個人的に、これまで個くらい発見したことがあり、先生にも確認をとったことがあります)、論理的にごまかしている部分があることは意外とあります。特に、高校の理科などは、大学に入ったらもっと厳密にやることになるので、意外と論理に穴があったことに気づくと思います。すなわち、「教科書であっても鵜呑みにせず、検証していく姿勢が重要である」と思います。これが、「教科書をちゃんと読む」ことの一例であると思います。これは、いわゆる「言うは易く行うは難し」というやつで、かなり大変だと思います。しかし、これが行えれば、かなり読解力や論理的思考力がつくと思います。ぜひ、チャレンジしてみてください。
大間違いの説明
先ほどの「不適切な説明」では、論理的に自明だったり、循環論法っぽくなっているという問題点はありましたが、間違ったことは言っていませんでした。実際、それによって生じる悪影響は基本的にはないでしょう。一方、世の中には大嘘の論理が出回っているという事実があります。本章では、そのことに関して述べていきます。
エセ科学
大嘘の論理として、個人的にすぐに思いつくのはいわゆる「エセ科学」に関することです。「エセ科学」とは、「科学的に見せかけているが、実際には根拠がない主張のこと」です。特に、僕自身は量子デバイスに関する研究をしているので、一般人よりは量子力学に詳しいと思いますが、ちまたには、『量子力学的○○』とかいう意味不明な本が多数売られています。例えば、「あなたの思考には波動があり、その波動が宇宙に共鳴して現実が引き寄せられる」みたいな主張がされています。
明らかに論理的におかしいことが書かれているのですが、レビューなどをみると、「量子力学を完全に理解できた!」とかいうレビューが散見されます。サクラ(商品やサービスの評価を意図的に高めるための偽装ユーザー)などもいると思うのですべてを信じるのもあれですが、それなりの数の人が論理的に間違ったことを「理解」してしまっているのは事実でしょう。実際、かなりの数売れているようですし。
なぜ間違った説明を「理解」してしまうのか
なぜ、人間はそのような誤った説明を「理解」してしまうのでしょうか。
どうも人間の脳は「わかりやすい話」を信じたがるという傾向があるのは事実のようで、「わかりやすくて理解できるからこれは正しいことだろう」と考えてしまっているようです。しかし、「わかりやすい」と「正しい」は実は違うのです。
例えば、量子力学に関するエセ科学に関しては、実際には誤った使い方なのに、多くの専門用語が登場することで、正しいことのように見えてしまうようです。よく、「人をだますテクニック」として、「正しいことと間違ったことを織り交ぜることで、だましやすくなる」というようなものがあります。今回の例だと、正しい科学用語が登場することで、実際は誤った用法であるのに、正しいのだと誤解することにつながります。
また、「人間は信じたいことを信じる」傾向もあるようです。例えば、「思考が現実を作る」、「波動が合えば夢が叶う」など、都合の良い願いが叶う論理があると、それを信じてしまうことがあります。この論理は宗教などにも通じると思います。「人は安きに流れる」という言葉がありますが、その流れる方がダメな方だった場合、非常に問題があると思います。
間違った説明を「理解」しないためには
持論にはなりますが、「専門外のことに関しては黙っていた方が無難」だと思います。専門外のことに口を出すのは、例えば、野球をやったことがない人が、プロ野球選手に対して「こういう風に打った方がいい」とかアドバイスするようなものです。基本的に、「自分は専門家ではない」という謙虚さが重要だと思います。
やはり、専門家は専門家であるから専門家であるのであって、そこら辺の一般人が専門家を上回る能力を持つことは基本ありません。まれに、「野生の天才」みたいな人がいたりはしますが。
したがって、基本的に「多くの専門家の見解には、信頼性があると考えるのが妥当」です。したがって、ある情報の出所がどこなのかはよく考えた方が良いです。これは、勉強に限らないことです。いわゆるフェイクニュースなどにだまされないようにするためにも、このような慎重さは重要となります。
説明の誤った「理解」
これまで、「不適切な説明」および「大間違いの説明」に関して述べました。これは、説明の側に問題があることです。一方、読者側に問題がある場合もあります。すなわち、「説明は正しいが、読者が正しく読解できていない」というパターンです。この章では、このことに関して述べていきます。
説明がわかりづらい場合
正しいことは書かれているが、説明がわかりづらいものの例としては、やはりハイレベルな本があると思います。例えば、ハイレベルな受験参考書の解説などは、そもそも話している内容が高度すぎて、理解できないということが多々あります。また、例えば数学の本などでは、途中計算がガッツリと省略されていることもあります。論理的に問題がないとしても、読んでいる側からしたら、何をやっているのかわからなくなります。
読者の読解力・理解力が足りていない場合
説明がわかりやすかったとしても、それを理解できない人もいます。たまに、などで、明らかに無茶苦茶なことをいっている人がいると思いますが、それがこの話に該当すると思います。また、話の文脈を理解せずに切り取りを行って、間違った結論を下す人もいると思います。これは、情報源側の問題ではなく受け取った側の問題であり、情報源の人から見たらどうしようもありません。
どのような姿勢が必要か
こういうことが起きないようにするためには、書く方はより詳しく書くべきですし、読む方はその高度な内容や省略された計算を理解できるようになるべきです。これはキャッチボールのようなもので、投げた方が暴投した場合(文章がわかりづらい場合)にキャッチできないのは仕方ないでしょう。一方、投げる側がきちんと投げた(わかりやすい文章を書いた)ならば、それをキャッチできない(理解できない)受け手側の問題です。
したがって、何かしらの文章が理解できなかった場合、自分の問題か、文章の問題かを一度考えてみましょう。判断ができなかった場合は、誰か周りの人に聞いてみるのが良いと思います。多くの人が「意味が分からない」といったら文章側の問題の可能性が高く、「その文章は正しい」といったら読み手の理解度の問題の可能性が高いです。「自分の論理・理解は間違っているかもしれないから、誰かに聞いてみよう」という謙虚な姿勢が重要であると思います。決して天狗になってはいけません。
結局理解するとは何なのか
以上までの話を踏まえて、結局理解するとは何のかについて考えてみたいと思います。
「理解」とは、結局のところ、「情報の受け手が、伝え手の意図した内容を正確に把握すること」であると思います。例えば、という主張がしたくて、実際にそういう主張をする文章を書いた人がいたとしましょう。しかし、その文章を読んだ人が、「著者はという主張がしたいのだ」という風に解釈してしまった場合、それは「理解した」とは言えないと思います。すなわち、伝え手の意図と受け手の解釈とが一致していることが、「理解」の重要な指標となるといってよいのではないでしょうか。
ただ、これだけでは当然不十分な面があります。というのも、たとえば先ほど述べたような「エセ科学」や誤った情報のように、伝え手の側に問題がある場合もあります。仮にその意図が読者に正確に伝わったとしても、それはむしろ「誤った理解」となるでしょう。むしろ、意図を正しく読み取ったうえで、「その主張には誤りがあると判断できる状態」こそが、より本質的な理解(深い理解)であると考えられます。
一方で、さらにややこしいのは、人間には多様な価値観があるという点です。という考え方もできるし、その逆のという見方も可能であるようなケースは多々あります。たとえば、「つくるのが面倒だから外食が良い」と考える人もいれば、「節約したいから自炊の方が良い」と考える人もいるでしょう。このような話は日常のケースのみならず、人文学系の学問でもしばしば起こります。このように、相反する考え方がそれぞれに根拠を持ち得る事例では、「正しい理解」が一義的に定まるとは限りません。
したがって、そうした価値観の対立や文脈の違いをふまえれば、「完全な理解」は難しい局面もあると認める必要があります。そのうえで、他者の立場や考え方を理解しようとする姿勢自体が、理解のプロセスとして重要であるということを、我々は常に意識しておくべきなのではないでしょうか。
おわりに
本記事では、「教科書をちゃんと読む」とはどういうことか、すなわち「理解するとは何か」、「そのためにどのような姿勢が必要か」について、暗記云々という垣根をさらに超えて、僕なりの考えを述べてきました。
読み返してみたら、結構説教くさく、長くなってしまいましたが、少しでも参考にしていただければ幸いです。
最後に、この文章を通じて伝えたかったことを改めてまとめると、
- 教科書を読むとは「書かれていることを検証しながら読む」こと
- 説明には「不適切な説明」と「完全に間違った説明」が含まれていることがあり、どちらも注意が必要
- 「理解する」ということは、情報の受け手が、伝え手の意図した内容を正確に把握すること(場合によっては、否定することもあり得る)
- 読み手自身も謙虚さを持ち、理解できないときは自分の理解力の問題か文章の問題か、慎重に考える必要がある
ぜひ、以上の視点を忘れずに日々の勉強に役立てていただければと思います。また、皆さん自身がこれから「理解する」という行為にどのように向き合っていくか、少しでも考えるきっかけになれば幸いです。
ここまで読んでいただきありがとうございました。他の記事(特に歴史カードゲームHi!story(ハイスト)の思い)や本家のハイストの方もよろしくお願いします。
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